・前額車線  彼はイライラしながら離《はな》れで待っていた。 (いつだって、こうだ)  本家とのつなぎをとったのは自分だというのに、会合に出席することも許されず、明らかに格の低い室《へや》で茶も出されず待たされたまま。  損な役回りは自分で、兄ばかりがいつも得をする。 (ふん……だが、今日はどうかな)       ちよ、つしよらノ事つ  彼は嘲笑を浮かべた。  いくら兄が出世し、王の傍《そぼ》近くに仕える身になっても、それは王都貴陽《きょう》での話。どんなに位があがろうと、茶州に戻《きしゅうもど》れば単なる傍流《ぼうりゆう》出の格下貴族だ。口うるさい一族の連中からは成り上がりの若造としてバカにされるだけ。まともに話とやらができるかどうかも疑わしい。  青年はその光景を想像し、少しばかり|溜飲《りゅういん》を下げた。  不意に、彼は|眉《まゆ》を寄せた。母屋《おもや》の方角で、かすかに悲鳴らしきものが聞こえた気がした。  この離れまではかなり遠い。本当に母屋からここまで聞こえてきたとしたら……相当の絶《ぜつ》きよう叫のはずだ。 (……なんだ?)  席を立とうかどうか迷った。本家の邸《やしき》を勝手に一人でうろつく度胸は、さすがになかった。  しばらくして、しん、と静まりかえった。妙な胸騒《みょうむなさわ》ぎを覚えつつもおとなしくここにいようと思った矢先、真っ青な顔をした下働きの男がまろぶように走っているのが窓から見えた。  あまりにも尋常《じんじょう》でない様子に、彼は回廊《かいろう》へ出ると男を呼び止めた。 「どうした。何かあったのか」  男は彼を見上げると、ついに気力も尽《つ》きたといわんばかりに地にへたりこんだ。ガクガタと震《ふる》え、目の|焦点《しょうてん》も合っていない。まともな思考などできそうにないのは明白だった。  けれど彼は格下の相手に侮《あlなど》られるのが何より嫌《きら》いだった。苛立《いらだ》たしげに重ねて訊《き》いた。 「どうしたと訊いている。答えわはこの場で首を別《は》ねるぞ下郎《げろう》!」  その言葉の何に反応したのか、男は悲鳴をあげた。 「うあ…あ、だ、旦那《だんな》様が……ぼっちゃんがたが……こ、殺…殺されたぁっ」   �血相を変えて母屋に踏《ふ》みこんだ彼は、むせかえる血の臭《にお》いに思わず鼻を押さえた。  まさか、と思った。  そこに|吐息《と いき》の音さえ響《ひぴ》くような、怖《おそ》ろしい静寂が《せいじやく》あった。  どくどくと鳴る心肺《しんぶ》をおさえ、全身に冷《ひ》や|汗《あせ》をかきながら彼はおそるおそる奥へ進んだ。  ひときわ濃《こ》く血の臭いが漂《ただよ》う扉の奥。間取りからして、|間違《ま ちが》えようもない。  会合の場所。本家の者が勢揃《せいぞろ》いしているはずの室《へや》。そして先刻兄が向かったところ。  震えながらも、何かに導かれるように彼は扉に手を伸《の》ばした。  予感があった。この室で何が起こったのかー自分は何を目にするのか。  そしてそれは裏切られなかった。   ー本家の男たちほ、ことごとく骸《むくろ》となり果てていた。  ごろりと屍が《しかばね》横たわるそのなかで、ただ一人、生きている者がいた。  脆《ひぎまず》き、こちらに背を向けて何かを抱《だ》きかかえていた青年は、扉のひらく音で振《ふ》り返った。 「……仲障《ちゅうしょう》か」  ひんやりとしたその日に、彼ー茶《さ》仲障は息を呑《の》んだ。  表情の|一切《いっさい》合切が削《そ》ぎ落とされていた。まるで、鬼神《きしん》が乗り移ったかのような�。 「……あ、にうえ……」  茶鴛洵は腕《えんじゅんうで》に抱《かか》えていた誰か《ヽヽ》をそっと床《ゆか》に横たえた。無意識にその姿を目で追った仲障は、それが兄と親しかった本家姉男《ちゃくなん》であることに気づいた。後継《こうけい》とはいえ、生まれながらに体が弱く、とても当主はつとまらないといわれていた青年だった。もとから色白だったせいか、血の気を失った今も、まるで眠《ねむ》っているだけのように見える。   ー胸を|貫《つらぬ》く、兄の剣さ《つるぎ》えなければ。  鴛泡はゆっくりと、その剣を抜《ぬ》いた。返り血がしぶき、浅い色の着衣を紅《あか》く染めあげても、兄は凛《りん》として表情一つ変えなかった。  そのとき、立ちすくむ仲障の横を誰かが背後から追い越《こ》して、風のように駆《か》け抜けた。 「 !」  |漆黒《しっこく》の髪《かみ》をなびかせ、美しい女人が鴛洵にしがみついて何ごとか|叫《さけ》んだ。  仲障には、彼女が何と言ったのか、よくわからなかった。ただ熟にうかされたように、兄の顔だけを見ていた。  鴛洵は、茶本家嫡男の血を吸った剣をひと振りし、ぬぐいもせずに鞘《さや》におさめた。 「本家の継嗣《あとつぎ》は、すべて死んだ」  月下の氷刃《ひようじん》のごとき冴《さ》え冴《ぎ》えとした声だった。 「−これより私が、茶家当主となるー」  仲障は、その声が全土に麗々《れいれい》と響き渡《わた》ったかのような|錯覚《さっかく》をおぼえた。  この兄ならばなるだろう1ぼんやりとそう思った。  望むことさえ許されないはずだった、一族の頂点に、きっと立つ。  ー一族の血にまみれた姿で。  類を見ない|大惨事《だいさんじ》を聞きつけてきた一族の者たちは、その日のうちにことごとく、茶鴛洵という今まで歯牙《しが》にもかけなかった若者の前に|膝《ひざ》をついた。  そして傍流《ぽつりゆう》出身の青年が、彩《さい》七家のひとつである茶家の当主におさまるという、異例の事態が遠く王都まで届くのは、やや経《た》ってからのこととなる。  じ  ーl‖  少女は山菜採りの手を休めて、林立する木々を見上げた。  年の頃《ころ》は十六、七ほど、目鼻立ちは整っていたが、美少女というよりは澄《す》んだ水底《みなそこ》のような少し独特な雰囲気《ふんいき》のほうが印象的だった。着ているものは質素だったが、仕草や物腰《ものごし》はあきらかに邑娘《むらむすめ》とは違っていた。  少しずつ、秋の気配が濃厚《のうこう》になっていく。空の色さえ移りゆく季節のなかで変わってゆくことを、少女はこの山にきて初めて知った。  間一髪《かんいっぱつ》で大叔父《おおおじ》の手から逃《のが》れ、浪燕青《ろうえんせい》によって峻険《しゅんけん》と名高いこの山の、小さな庵《いおり》に連れてこられた日が、遥《はる》かに遠い昔のように思える。 『よいか春姫《しゅんき》1』  寸前で自分だけを逃《に》がしてくれた最愛の祖母は、大叔父のもとで軟禁《なんきん》状態にあるという。 『星を読み、時をはかりや。そして、そ《ヽ》の《ヽ》と《ヽ》き《ヽ》がきたらー』  あれから、幾月《いくつき》も過ぎた。 「春姫殿《どの》−」  不意に呼び声が聞こえたかと思うと、いきなり一人の少年が木の上から降ってきた。 「こんなところまで下りていらしたか! 春姫殿もなかなか足腰《あしこし》が強くなって参ったな!」  十をいくつか過ぎたばかりの少年は快活に笑うと、ハッと少女の手をとった。 「木の葉で指を切られたか。家に戻ったら薬を調合いたそう。ちょうど曜春が《ようしゅん》新しい薬草を摘《つ》んできた。……きたときはお姫様のような手だったのに……」ガックリと肩を落とした少年の唇《くちびる》に、春姫は細い人差し指を押し当て、ゆっくりと首を横に振った。言葉という手段を使えぬ春姫にはそうすることしかできなかったけれど、少年はいつだってきちんと意図を酌《く》んでくれた。 「……薬草で、春姫殿の声も出るようになったら良いのになぁ」  少し大人びた笑《え》みを浮かべて、そういってくれた少年の|優《やさ》しい心が春姫には嬉《うれ》しかった。  山菜で一杯《いっぱい》になった寵《かご》を拾い上げると、少年は春姫に背を向けてしゃがみこんだ。 「春姫殿、慣れぬ山菜採りで疲《つか》れたろう。さ、おぶきってくれ。春姫殿のおみ足でここから家まで山登りをすると、昼食《ちゆう�レき》の時刻をだいぶ過ぎてしまうから遠慮《えんりょ》なきらずにな!」彼の弟の曜春にいわせると、兄・翔琳《しようりん》の背は去年の夏ごろから 「雨後《うご》の苛《たけのこ》のよう」に、にょきにょきと伸びているらしい。今では春姫も視線を合わせるのにちょっと仰向《あおむ》かねばならないほどだった。  親切な申し出に、春姫は素直《すなお》に肯《うなず》いた。今までの彼女の常識では異性の背におぶさるなど論外だったが、この年下の元気な少年で二人目の例外ができた。  まるで赤子を背負うかのように軽々と立ちあがると、翔琳は風のように走り出した。  驚異《き上冒つ∴い》的な速さで急峻な《きゆよノしゅん》山を駆け上がる。春姫が下りてきたときの半分の短さで、山頂付近にたつ小さな庵に|到着《とうちゃく》した。それでも少年の息はまるで乱れなかった。  煮炊《にた》きの煙が《けむり》漂い出ている小窓から、別の少年の顔がひょっこり現れた。 「お頭《かしら》−、春姫さま、お帰りなさい。ちょうどお昼ができたところですよ。あ、山菜たくさん採れましたね。夕餉《ゆ,ユげ》にいくつか使いましょう。あれっ、その赤と黄色の斑は《まだら》毒キノコ!」とんだ大失敗に春姫がぎょっとするよりも先に、翔琳のげんこつが飛んだ。 「バカモノ曜春! おなごに恥《は川レ》をかかせるつもりか。せっかく我らのために足を運んで摘んできてくれたのに礼も言わずに! そういうのはあとでこっそり伝えるモノだ! そんなことでは立派な二代目義賊《ぎぞく》�茶州の禿鷹《はげたか》″への道はまだまだ遠いぞ!」 「あっ、精進が《しようじん》足りませんでした! ごめんなさい春姫さま!」背から降りた春姫はとんでもないと両手を振り、慌《あわ》てて謝罪のかわりに深々と頭を下げた。  しかしおいしそうだと思ったのに毒キノコだったとは……毎日が新発見だ。  そして毎日がとても楽しかった。  やいのやいのと毎日元気な二人の兄弟を|微笑《ほほえ》んで眺《なが》めながら、春姫はふと視線を山の下へ注いだ。その衷情に束《つか》の間《ま》、凛と涼《すず》やかな鋭《するど》さが加わる。  酎配部が選んだ 「護衛役」と過ごしたこの二年近くは、なんと平和で離やかだったことか。  それでも、ずっとここにいるわけにはいかなかった。  風が吹《ふ》く。  目を閉じて思い|浮《う》かべるは、幼いころ足をくじいた自分を背負ってくれた、二つ年上の従兄《いとこ》の姿。優しい笑顔の、茶克洵《こくじゅん》−。  この風とともに、自分も動き出さねばならない。 『そのときがきたらーそなたが為《な》すべきと思うことを為しや』  その、時は、近い−。  言葉にできない想《おも》いを吐息にこめて、春姫はそっと吐《ま》きだした。       ・串・翁・  書翰に州牧《しよかんしゅうぼく》代印を捺《お》しながら、郵悠舜《ていゆうしゅん》は積み上がった仕事を見て|眉《まゆ》を寄せる。このところ、とみに仕事が増えた。  茶州各地で、|頻繁《ひんぱん》に暴動に近い|騒《さわ》ぎが起きているとの報告がきている。  悠舜は事態の収拾を図るべくすぐに州軍を各地に派遣《はけん》したが、おかげで最も重要な州都境噂の警護が手薄《てうす》になってしまった。茶家がヌケヌケと私兵の援助《えんじょ》を申し出たのを受けた一因はここにもある。また州府の文官も、各太守たちの一助とするべくやはり州軍とともに向かわせたので、少ない州官吏《かんり》がさらに減った。着任式の準備もあり、現在境疇城はてんてこまいだった。  最優先で守るべき新州牧たちの動向も、さぐるべき茶家の動向も、一刻を争うのに人手が追い  つかない。  茶家のこれまでにない手際《てぎわ》のよさは、現在同家の指揮をとっているであろう者の有能さを物語っていた。決して表には出てこないが、この指揮官が誰《だれ》であるかはすでに明白だ。  ふと、響《ひぴ》いてくる足音に悠舜は書きものの手を休めた。  いつもは穏やかに優しい眼差《まなぎ》しが、急速に剣呑《けんのん》さを増す。足音だけで、来訪者の正体はある程度予想がつく。たとえば見回りの歩兵ならば、乱雑で大きな足音を立ててむやみに歩き回る。  茶家の人間ならばもったいぶってやけにゆっくり歩くし、その周りをせかせかと動く大勢の足音で囲まれている。−しかしこの足音は。  響く音はたった一つ。規則正しく、ゆるやかに。本来は凶悪犯を《きょうあくはん》閉じこめるためにつくられたこの塔《とう》の最上階へ、いささかの達巡《しゅんじゅん》もなくまっすぐ向かってくる。余裕《よゆう》に満ちた足音は、次々と博《かしず》かれる中を悠然《ゆうぜん》と進む王のごとく優雅《ゆうが》に響いた。  悠舜ほゆっくりと筆を描《お》き、唇を引き結んだ。  T・…これが、あなたの本性と《ほんしょう》いうわけですか)  悠舜は正確にその足音の主を見抜《みぬ》いていた。孤絶《こぜつ》した塔のてっぺんに一人きりでいても、悠舜の許《もと》にはあらゆる報が入ってくる。先の金華《きんか》での出来事もすでに把握《はあく》済みだった。  果たして、分厚い鉄|扉《とびら》の向こうでぴたりと足音が止まった。 「こんなところに半年以上も閉じこもって、よくもまあ退屈《たいくつ》しないことだね、鄭悠舜」  よく知っているはずの声も、以前とはまるで印象が異なっていた。かつては|優柔不断《ゆうじゅうふだん》とすら  思われた優美な声音が、いまは研《と》ぎ澄まされた刃のように、冷え冷えとした迫力を秘《はくりよくひ》める。  悠舜はわずかに息をついた。 「できるなら退屈したいと思っていますよ。このような場所にいても色々とすることが多くて困ります。骨休みの|休暇《きゅうか》をぜひいただきたいものですね、茶朔泡殿。《さくじゅんどの》……ご用件は?」悠舜の皮肉にくすくすと楽しげな笑いが応じた。申し訳程度に鉄扉の上部についている小さな格子《こうし》窓から相手の顔がのぞくことはなく、ただ艶《つや》のある声だけを届ける。 「君はとても幸せだね。退屈したいなんて、私も一度でいいから言ってみたいものだ」 「金華ではずいぶんと、お遊びになったようですが?」 「退屈しのぎにね」  涼やかな声は否定をしなかった。 「結局、退屈が前提にあることに変わりはない。……私はね、鄭悠舜、とてもとても退屈なんだ。もともと何に関してもやる気がないうえ、興味が湧《わ》いてもすぐに飽《あ》きる。この飽きっぽさは自分でも欠点だと思う。先が見えてしまうのが悪いのかな。何もかもがつまらない。この世のすべてが厚い泡沫《はかなあわ》のように見えるよ。すぐに弾《はじ》けて消える……本気で不思議だったんだ。世の人は、いったいどうして生きることに飽かないのだろうって」鉄扉ごLに、しやらん、と何かが鳴った。その澄んだ音に、悠舜の|眉《まゆ》がきゅっと寄った。 「朔泡殿……今手にしていらっしゃるものは」 「……なんだと思う?」  しゃらしゃらと、まるで朔陶の心の内を表しているかのように楽しげな音が鳴る。  調璃肝しいといってもこれはか。はダメだよ。想い人を鶴ぶ、たった云酎�り」手にしたものに愛《いと》しげに唇を寄せる姿が容易に浮かぶ、ぞくりとするほど|妖艶《ようえん》な声だった。 「ねえ悠舜、不思議だね。世に万と転がる石の寄せ集めが、ただ一人の髪《かみ》に飾《かぎ》られていたというだけで、これほど特別な想いを抱《いだ》けるものになるなんて、今まで思いもしなかったよ」悠舜は|溜息《ためいき》をついた。 「恋ですか」 「そう、初恋なんだ。しかもこの世に生を享《う》けて二十九年目にしてようやくの、遅《おそ》い春なんだよ。祝福してくれるかな」 「彼女には怖《こわ》いお身内がついていらっしゃいます。やめたほうがよろしいかと存じますよ」 「ああ、知っているよ。さっそくごく個人的にご挨拶《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いただいたからね。でもそういう|無粋《ぶ すい》な                                                                  すまねはどうかと思うよ。彼は一度馬に蹴《l■▼》られるべきだね。同期のよしみで君からも、そう忠告してあげたほうがいいんじゃないかな」悠舜は|呆気《あっけ 》にとられた。……どこからどのように手を回したものか、すでに黎深《れいしん》は恋路を邪《じや》魔《ま》Lにかかったらしい。しかしあの黎深が手を下して、いまだに生きているとは。−いや。  茶家そのものには、いまだ紅家《こうけ》の圧力はかかっていない。それは悠舜にもわかっている。  紅黎深が手を出したのは茶朔抱にのみ。それは警告でさえない。紅黎深の辞書に 「警告」な  どという生温《なまぬる》い単語はないのだ。|状況《じょうきょう》も忘れて、悠舜は思わず笑みをこぼした。 (一度突《つ》っ走ると無|軌道《き どう》なあなたが、誰《だれ》かのために自制するなんて)  姪《めい》が愛しいからこそ自身は手を下さないと、黎深は朔洵を殺さないことで示した。『くれぐれもよろしく』などというらしくない書翰《しよかん》など送ってきたのもそのせいだ。彼女を手助けできるのは、州牧《しゅうぼく》補佐である悠舜以外にはないと。  紅秀麗。《しゅうれい》名門紅家の長姫《ちよ−つき》、彩雲国《さいうんこく》初の女性官吏《かんり》。そしてさきの|騒動《そうどう》のあと、ほとんど退官を決めてしまっていた上司《えんせい》を、もう一度引き戻《もど》してくれた少女。 『今からでも|頑張《がんば 》ればいいのに、つて言われちまってさ』  二度と戻らないと思っていた彼が、ごめんと頭を下げて州府に帰ってきたとき、悠舜ほどれほど彼女に感謝したことか。秀麗の州牧就任に誰より喜んだのも燕青《えんせい》とー自分だ。  まだ見ぬ年若い新州牧たちを、本当に心待ちにしていたのだ。それを−。 「……退屈しのぎで私たちの大切な上司にちょっかいを出して頂きたくはありませんね。早々にお考え直しいただいて、手にされている�花″をお返しください」 「……退屈しのぎ、か……」少しだけ沈黙《ちんもく》が落ちた。|扉《とびら》の外で、まるで首を傾《かし》げるようにしゃらりと珠飾《たまかぎ》りが鳴る。 「今回ばかりは、それにはあてはまらないと思うんだ。私は別に、無脚《ぶりょう》を慰《なぐき》めたくてちょっかいをかけたわけではないから」いつのまにか、朔洵の声から笑いの色は消えていた。 「あの姫《ひめ》と……あの二胡《にこ》と出会えたのは本当に幸運だったと思うよ。彼女の二胡を聞いて過ごしたひと月はまるで退屈しなくて、私自身が|驚《おどろ》いた。いっそ怖いくらいだね」悠舜は眉根《まゆね》を寄せた。……怖い? 相手の沈黙に構わず、朔抱は言葉を探すように続けた。 「あんなふうに私を飽きさせなかったものは、今までひとつもなかった。私好みの二胡を弾《ひ》いてくれたのは彼女だけだ。あれほど執着《しゅうちゃく》できるものには二度と出会わないかもしれない。これが最初で最後とさえ思うよ。だから、もしあの音にも飽いてしまったらーなんだか本当に、私にはもう生きる理由がないような気がするんだ」朔泡は真実そう思っているようだった。だが悠舜は、彼の無意識下の感情を正確に酌《く》みとった。……初恋というのは本当らしい。自身の把握しきれぬ想いがあることさえ知らぬ。  なぜ怖いと感じるのか−最初で最後と思う、その心理はどこに起因《きいん》するのか。 (この男《ひと》はー)  悠舜はまた少し、朔泡に関する情報の修正を行った。静かに息を吐き、ついと顔を上げる。 「最初の問いに戻ることにいたしましょう。つご用件は何ですか」  思いだしたように、鉄扉の向こうから軽い笑み含《ぶく》みの声が返ってきた。 「ああ、そうだった。お祖父様《じいきま》のお使いでね。とても簡単なことだ」  扉の向こうで、茶朔河がゆっくりと、その整った貌《かお》に笑みを刷《は》くのが見えた気がした。 「君の州牧代理権限をもって、すみやかに境|噂《うわさ》の全面封鎖《ふうさ》をして欲しいそうだよ」  確かに今の悠舜には茶州州都・境環を封鎖する力がある。悠舜は眼差しを険しくし、唇を《くちびる》引き結んだ。 「理由をお聞かせ願えますか。まだ新州牧は琥《こちら》へ入ってはおりませんが」 「だから《ヽヽヽ》だろう? まあお祖父様からの最初の嫌《いや》がらせというところじゃないかな」 「……|拒否《きょひ 》したら?」 「境《ヽ》噂《ヽ》で《ヽ》色《ヽ》々《ヽ》と起きるんじゃないかな。……ああ、何かやって欲しいことはある? ご要望には最大限お応《こた》えするよ。君の趣味《しゅみ》はお祖父様ほど悪くなさそうだから、叶《かな》えてあげる気になるかもしれない。ふふ、言ってごらん。で《ヽ》き《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》は《ヽ》何《ヽ》も《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》と《ヽ》思《ヽ》う《ヽ》よ《ヽ》?」 「   − 」 「そろそろ君も用無しだし、ほら、この扉の内側につけた錠《じょう》をあけてくれさえすれば、死に方も自由に決めさせてあげる。このままじゃあ、蒸《む》し焼きにするくらいしか方法はないよ? お祖父様はすっかりそのつもりみたいだけれど」悠舜は掌《てのひら》をきつく|握《にぎ》りこんだ。歌うような|優《やさ》しい声が扉の向こうから響いてくる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ、鄭悠舜。君の大切な人たちなら、封鎖してもちゃんと大都してくる。そうだろう? そのくらいはしてくれないとね。……さて、ここで意地張ってもたいして役にも立たないことくらい、聡明《そうめい》な君にもわかっているはずだから、返事は訊《き》かない。日が|沈《しず》むまでに気持ちを整理しておいて。じゃあね」しやらん……と玲確《れいろう》たる珠玉《しゅぎよく》の音がひときわ涼《すず》やかに鳴った。       ・歯魯歯鏡 「お見事…と申しましょうか。ですがあと十年、生まれてくるのが遅《おそ》かったですね」   −そして、動き出すべき時も。 「気まぐれで遊ぶには、少々おイタがすぎますよ……茶朔洵」  彼と燕青は、茶太保《たいは》の計報《ふほう》と同時に動きはじめていた。起こりうるあらゆる事象を想定し、そのすべてに対処すべく手を打ってきた。今さら、揺《ゆ》らぐものなど何一つない。 「さて、それではおとなしく待ちましょうか」  悠舜はにっこりと笑うと、足をかばいつつ|椅子《いす》に座りなおした。 「いやですね。歳《とし》をとると独り言が多くなって困ります。お若い新州牧のお二人に、嫌《きら》われないようにしなければ……」早く、きちんとお会いしたいものですーにっこりと笑ったとき、窓辺からコココソという啄木鳥《きつつき》のような音がした。  扉についている小窓ではない。その正反対、直接闇が忍び入ってくる太い鉄格子《てつごうし》の向こうには異《そら》と断崖絶壁しかない。落ちたら煮込みすぎた具のようにぐずぐずになるほどの高さなのだが、なんとそこから黒い|手袋《てぶくろ》をした手だけがひょっこり突き出ている。  すっかり馴染《なじ》みとなったこの手は、来訪のたびにいつも太い鉄格子を器用にねじり、ぽいぼ  い牢《ろう》内に放りこむ。用事が終わると悠舜がその格子を内側から手渡《てわた》して、またはめなおしてもらっていたのだが、はっきりいって幅指三本ぶんはある鉄の棒である。悠舜などは一本ずつ額に|汗《あせ》をかいて運ぶのが|精一杯《せいいっぱい》だったのだが、黒い手袋はそれをまるで紙の巻物のように軽々とつかみあげるのだ。  今日も|訪《おとず》れたその不思議な手は、|一旦《いったん》ふいと引っ込んだかと思うと、今度はでかい龍《かご》を一つ投げ込んできた。 「いつもありがとうございます、南老師《なんろうし》」  悠舜は別段驚いた風もなく礼を述べ、空《から》のその寵に処理済みの書翰を丁寧《ていねい》に入れていく。きちんと蓋《ふた》をして開かないように紐《ひも》を結ぶと、不自由な足をかばいつつ、結構な重さのある寵を窓辺まで押し上げる。  悠舜がなんとか両手で運び上げた龍は、片方の手の指先だけでひょいと受け取られた。 「南老師、申し訳ありませんが、その仕事を届け終わってから、もう一度いらしていただけませんか。これが最後のお願いになります」 「む、ではそれで弟子《でし》との約は終了だ《しゅうりょう》な! 我輩《わがはい》はまた武者修行に赴《おもむ》いてもよいのだな」声の主はいつも外壁《がいへき》にはりついたまま顔を見せない。悠舜はやわらかな微笑を浮《ぴしようう》かべた。 「……はい。今まで本当にありがとうございました。燕青に、何か伝言はありますか」 「『ツケはちゃんと払《はら》えー』」 「……わ、わかりました」  それはたぷん、すべて老師自身のツケなのだが、今まで世話になったことを思えば悠舜には何も言えない。 「では最後の約定を《やくじょう》果たそう。しばし待て」  なかなか豪快《ごうかい》に手が振られるのが見えた。何かが壁面を下がっていく音だけが微《かす》かに聞こえる。  いつものことながら、悠舜は思わずポッリと漏《も》らした。 「……あのかたはいったいどんな人なのでしょう……」  燕青とはかれこれ十年来の付き合いだが、いまだに彼の師匠《ししょう》の顔を悠舜は拝んだことがなかった。 『お師匠はさt、ちょっと恥《は》ずかしがり屋なんだよなぁ。よく食い逃げするのも、腹は減ってるけど人と顔を合わせるのが苦手だからなんだってさ。だから勘定《かんじょう》前に逃げるんだと』……なんか達《ちが》うだろうと悠舜は思うのだが。しかし確かにいつも声だけとか、見えても身体《からだ》の一部だけで、南老師の全体像を見たことはない。常人には計り知れないお人である。 「さて、では老師がいらっしゃるまでに身支度《みじたく》をととのえ……」 「待たせたな!」 「え?」  待つどころではない早すぎる声に空耳《そらみみ》かと振り返りかけ−悠舜の思考は暗転した。         e前歯巻線  邸《やしき》の奥の一室で、老婦人はゆるりと陣毛《まつげ》を上げた。 「……ようやく、きゃったか」  この|馬鹿《ばか》馬鹿しいほど悪趣味《あくしゅみ》な成金趣味の室《へや》に閉じこめられて長い刻《とき》が経《た》とうとしていた。  比翼《ひよく》の烏とも思う彼女の夫が逝《い》ったのは、昨年の春のこと。永い年月を連れ添《そ》った彼女の夫は、遠く離《はな》れた紫州《ししゅう》で命を落とし、それから季節は一巡《ひとめぐ》りして、今はもう、日ごと舞《ま》い散る落《らく》葉《よう》も鮮《あぎ》やかに色づき始めている頃だろう。  気品高い外見をものの見事に裏切って、彼女は苛立《いらだ》ちも露に羽扇《あらわうせん》をひるがえす。乱暴に卓子《たくし》に叩《たた》きつけられた扇《おうぎ》から、やわらかな白い羽根が幾《いく》筋か抜《ぬ》けてくるくると舞った。 「遅すぎるわ」  茶州《こちら》のゴタゴタが表面化するまで腰《こし》を上げぬとは、まったくどうしようもない腐《くさ》れ外道だ。  昔から虫の好かぬ男だった。狐狸妖怪爺《こりトやフかいじじい》道を薫進《ばくしん》しているだろう今もー奴《やつ》にそれ以外の道があろうはずがないーその評価は変わることはないだろう。  何もかも知った顔をする鬼畜《きちく》男……寄堵薇。《しようようせん》それでも、彼女は彼を待った。虫は好かぬが自分たちには|唯一《ゆいいつ》、そして何より大きな共通点があったから。  彼女は歳《とし》を感じさせぬ優美な動きで立ちあがった。  片翼《かたよく》はもがれてしまった。それでも、まだ守るべきものがあるから、逝《ゆ》けない。 (許せ、鴛拘《えんじゅん》……いましばし)  歩きはじめた愛《いと》しい孫たち。かつて自分たちが駆《か》け抜けた時を、彼らもゆこうとしている。  おのが道を、おのが手につかむため。  1−彼女がこの室《へや》から出るには、まだしばしの時が必要だった。                      ●  輿鳳憤慨聞困恩威ー�回�漸潮目日日日出   さこくじゅん  しトやつかい           しゅうれい      おごろ  茶克洵を紹介されたとき、秀麗はひどく驚いたものだ。  今年十八歳になったというその若者は、彼の、今はもう一人だけになってしまったすぐ上の兄とはまるで似たところがなかった。克泡の第一印象はたったひと言で表せる。  |平凡《へいぼん》すぎるほど平凡なひと。  だがその後、秀麗は克抱に対する印象を少しだけ改めた。 『長兄・草抱の亡骸《そうじゅんなきがら》は、僕一人で埋葬《まいそう》させていただけないでしょうか』  そう告げたとき、気弱すぎるほど|優《やさ》しい瞳《ひとみ》の奥に、決然とした光が浮かんでいたからだ。       ・歯・巻・ 「うぎゃあっ」  視界の隅《すみ》をサッと横切った黒い影《かげ》に、心の準備をしていなかった秀麗は思わず蛙をつぶした《ヽヽヽヽヽヽ》ような声を出してしまった。筆を手にしたままだったので、うっかり墨汁が隣の机案《ぼくじゆうとなりつくえ》まで飛び  散ってしまい、秀麗は二重に|蒼白《そうはく》になった。 「ぎゃー由官吏《ゆかんり》すみませんすみませんっ」 「あ、いえいえ|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。書翰にはかかりませんでしたから」  にっこりと微笑むのは、�殺刃賊《さつじんぞく》″による金華太守幽閉《きんかたいしゅゆうへい》の折、いち早く鄭悠舜《ていゆうしゅん》の指示で州府から金華郡府に派遣されてきたとい一う官吏だった。名を由准《ゆじゅん》といい、�殺刃賊″|被害《ひ がい》の調査等で金華郡のあちこちを駆けずり回っていて、帰郡したのがつい先日だという彼は、その激務をしのばせるように頬《ほお》がこけ、いまだにやつれた面立《おもだ》ちをしている。 『うっわーお前……お前がきちやつたのかよ……。境埴城《これんじょう》はんっと大丈夫なのかぁ?』  会った瞬間、《しゅんかん》そう坤《うめ》いて燕青《えんせい》が額をおさえたところを見ると、どうやら由官吏は州府でもかなりの高官らしかった。柴《さい》太守の対応もずいぶんと丁寧《ていねい》だったし、何より彼はついた早々から机案を並べて金華の事後処理にあたりはじめ、その有能ぶりを遺憾《いかん》なく発揮していた。 『正式な紹介は着任式終わったあとあと。でも|挨拶《あいさつ》はきちんとな!』  燕青にそういわれるまでもなく、面通ししたときの由官吏は死体一歩手前と表現してもいいほどよろよろしていて、とてもゆっくり紹介どころではなかった。秀麗も影月《えいげつ》も一応きちんと挨拶はしたが、そのあとはむしろ二人して彼を臥室《しんしつ》に追い立てて休ませたほどだ。  燕青が支えていなければ身動きもとれないほど衰弱《すいじやく》していた由官吏は、やつれっぷりがひどく年齢《ねんれい》も判別しにくかったが、ほっとしたように微笑んだ顔は意外に若かった。多分まだ四十にも届いてはいまい。  由准という人物は、仕事はテキパキとこなすが、基本的にとても優しく|穏《おだ》やかな人で、秀貫も影月もすぐに尊敬をこめた好感を持った。話にきく州牧補佐《しゅうぽくほさ》の鄭悠舜もこんな人なのだろうかと、秀麗はひそかに思っていた■lりする。    こ事つ 「紅州牧」  由官吏がやんわりとたしなめる。 「王都でお育ちなら仕方ないかもしれませんが、その、あまりお気になきらないほうが」 「う……は、はあ……」  秀麗が何も言えずに墨汁をふいていると、別の方向からも声が飛んできた。 「秀靂さん、大丈夫ですか?」 「まtだ慣れないのかー〜」  王都貴陽《きよう》の外で育った影月と燕青は苦笑《くしよ’フ》しているが、秀麗にとっては笑い事ではない。 「……そりゃ、ここまでちょろちょろされるとある程度は慣れるけどね、イキナリだとまだ驚くの。仕方ないでしょう、十七年間築き上げてきた固定観念は、ひと月ふた月で簡単に捨てられないんだからっ」ときどき視界の隅を走る黒い影は、なんというか−人ならざるもの、であるらしい。淀《よど》んだ気のようなもので、それが鼠《ねずみ》か何かのように日の端を横切るのだ。  狐狸《こり》妖怪など物語の中だけと思っていた秀麗は、正体を聞いて博然《がくぜん》とした。それから数日は、いつ出てくるかもわからない影を睨《にら》んで、一晩中火かき棒をもって|眠《ねむ》れぬ夜を過ごしたものだ  が−あまりにも日常的に出没《しゅつぼつ》する上、一瞬視界の端《はし》を横切っても、視線を向けるとあっという間に逃《に》げていってしまい、いまだその正確な姿を拝んだこともないので、だんだんどうでもよくなってしまった。が、それでもまだ完全順応するには至っていない。 (貴陽の外じゃあんなのが当たり前みたいにいるなんて思いもしなかったわよ)  説明されてもいまだに信じられない。鼠といわれれば勇んで退治に乗り出すのだが、アレばかりはそうもいかない。 「いーじゃん。ときどきちらっと見える程度で害もないし、大概《たいがい》何もしてこないしきー」  秀麗はぶるぶると震《ふる》えた。 「……そ、そーゆー問題じゃないのよ燕青……」 「まあ確かに今はこの山積みの事後処理のが大問題だけどなー」  さらっと言われた言葉に、秀麗と影月はうっと顔を引きつらせた。そろってちろりとそばの書翰《しよかん》の山を見つめる。  金華での事後処理は、カッコ良く引き受ける旨《むね》を宣言したときには想像もできないほど山積《さんせき》していた。執政室《しっせいしつ》に案内《あない》され、一足先に書翰の山に埋《う》もれて涙目《なみだめ》になっている影月を見たとき、秀麗は春の進士いびりを思いだした。 (着任式に間に合わないかも)  かなり本気で天を仰《あお》いだが、幸いなことに救い主が現れた。金華の柴太守が与《あた》えられた休養をたったの三日で切り上げ、精力的に働き始めたからだ。幽閉《ゆうへい》からの解放直後に、自ら兵を率《ひき》  いて菊《きく》の邸《やしき》に乗りこんできたあの官吏魂は伊達《だましいだて》ではなかった。 「このような大切なときに、安穏《あんのん》としているわけには参りませぬ」  周囲が引き留めるのを振《ふ》り切り、寝間着《ねまき》のまま執務室《しつむしっ》に飛びこんできたときはさすがに秀麗も影月も|仰天《ぎょうてん》した。だが長年金華太守として茶州第二の都を治めてきた柴太守の早期復帰は有《あり》難《がた》かった。しかしそれでも仕事の終わりは見えない。  州牧の官位を拝命したとはいっても、秀麗と影月は進士の折に雑用をこなしただけの新米である。出立前、州牧としてのある程度の流れや知識を叩きこみ、旅路で燕青から心構え等を教わっていても、まだ右も左もわからない。さすがに書面には目を通すし、わからないところは質問するが、すべてに説明を求める余裕《よゆう》もないので、現時点では、燕青や柴太守が確認《かくにん》して回してくる書翰をおそるおそる決裁していくだけ…という感じになってしまった。 「……もうなんだかやればやるだけ自分が情けなくなるわ……」 「ば、僕もです……」  ガックリと肩《かた》を落とす二人に、由官吏がやんわりと慰めた。 「今回は仕方ありません。何もお教えしてないのですから。もちろんお二人には州牧として、他《ほか》の進士たちよりも早く多く様々なことを覚えて頂かなくてはなりませんが……そもそも本来これは私と柴太守の仕事で、あなたがたのお仕事ではなかったのですし」 「そーそー。本当なら境壇の州府で悠舜にパリパリ教えてもらうはずだったんだからな。それにいっとくが二人とも、俺んときよりかなりデキいいぞ?」  まぜっ返した燕青を、由官吏が睨んだ。 「全然|自慢《じ まん》になりません。まさかそれは書翰を読みもせずに、早押し大会よろしく無責任に押印しては、|暇《ひま》さえあれば暴れていたことの言い訳じゃないでしょうね、燕青?」過去の所業を嫌味《いやみ》とともに非難する由官吏に、燕青はうっと背をのけぞらせた。 「し、仕方ねtだろ。あのころは茶家から|刺客《し かく》ばっか送り込まれてたんだからっ。……つかお前も十年も前のことをよく覚えてるな」 「ええよーく覚えてますとも。いきなり肥《こえ》だめに突《つ》き飛ばしてくれた恩は百年たっても忘れません。生まれて初めて死んだほうがマシだと思いましたからね」想像以上の物凄い過去に、秀麗も影月も血の気がひいた。燕青が取り繕《つくろ》うように笑う。 「だってあれは毒矢をかわすためで。とっさにあそこしかさ、なっ〜だ、だから平等に相手も肥だめに落としてやったじゃん! お前は背中からだったけど兇手《ころしゃ》はちゃんと頭から落としたし! あの事件のおかげで『ちょっととっつきにくい』とか言われてたお前にもみんな優しく接するようになっただろ!?」 「わけのわからない言い訳はやめてください」由官吏がズパッと|斬《き》り捨てる。その通りだ、と秀麗と影月も思ったので、燕青に加勢もできなかった。  ちなみにこのような口論の間も、燕青はなんやかやと由官吏に使われていた。というか、常に机案に座りっぱなしの由准とは対照的に、仮にも前州牧である燕青は、彼に顎《あご》で使われなが  らあっちこっち飛び回っていて、しかも金華郡府の誰《だれ》もがそれを当然とばかりに受け入れていた。最初は歩くのもおぼつかないほど疲《つか》れていた由官吏への一助かと思っていたが、近ごろではこれが 「浪《ろlつ》州牧の日常」だったのだろうと影月と二人で話している。 (それにしても……) 「……それにしても、燕青さんと由官吏って本当に仲が良いんですねー」  かいがいしく墨壺《すみつぼ》に墨まで足してやる燕青を見て、まさに秀麗と同じことを思ったらしい影月が感心したようにそういった。秀麗も思わず肯《うなず》く。 「そうそう。燕育って由官吏《かんり》には特別親切だもの。それこそなんでもしてあげてるから、由官吏がこの室《へや》に入ってから|椅子《いす》から立ちあがるところ、私一度も見たことないわよ」燕青の動きがぴたりと止まる。……なぜか妙な《みょう》間があった。 「そ、そっか?」 「そうよ。でもね、あんまり座りっぱなしだと逆に腰《こし》悪くしたりとかするのよ。墨足してあげるよりあなたが由官吏の仕事をちょっと手伝って、かありに空いた時間で散歩させてあげたほうがほんとはずっと親切よ」 「そうですよー。そろそろ寒くなる時期ですし、動かないと身体《からだ》が冷えてしまいますよ」燕青は摺《す》りかけの墨を傍《かたわ》らに寄せ、慌《あわ》てたように言葉を繋《つな》げた。 「あーうんそっか、そうだよな! いやでもなんかもう癖《くせ》になってるってゆtか、こいつもともとあんまり動けな……いや動きたがらないっつtか、歩くの下手っつーかいやなんでもない今の忘れて。……ああそうそう! 死ぬほどものぐさなんだよこいつ! 散歩とかも苦手でさ! だ、ダメだよなー」秀麗と影月は首をかしげた。……由官吏がものぐさ? 誰より遅《おそ》く寝《ね》て早く起きて、一体いつ眠っているのかもわからないほどの仕事をこなしているのに〜 「何失礼なこといってるのよ燕青。身なりもなんにも構わなくてめんどくさいとかいっておつゆにご飯ぶちこんで食べちゃうあなたのほうが、よっぽどものぐさじゃないの」 「そうですよー……それに癖とか歩くの下手とかってなんですか?」由官吏があきれたように燕青を見た。燕青は|珍《めずら》しlくうろうろと視線を逸《そ》らす。  詰《つ》まりっぱなしの燕青の代わりに、二人の州牧へ笑ってみせたのは由准本人だった。 「お気遣《きづか》いありがとうございます。でも燕青は、もともと頭の中まで筋肉が侵入《しんにゅう》してきているような人ですから、ちょろちょろしてないと何かと落ち着かないのでしょう」なんだか話をうまく逸らされたような? と秀麗が首を傾《かし》げたとき、香鈴《こうりん》のかわいらしい声が、|扉《とびら》の向こうからそっと窺《うかが》うようにかけられた。 「失礼致《いた》します。そろそろお茶などいかがでございましょうか〜」  すかさず 「よっしゃ!」と声を上げた燕青に、なぜか由官吏が|溜息《ためいき》をついた。 「ん、おいしい。香鈴、腕《うで》をあげたわねぇ」  お茶請《ちやう》けにとそれぞれの前に置かれたのは小ぶりのお饅頭《まんじゆう》で、香鈴の手作りだった。 「そんな……まだまだ秀麗様にはかないません」  目元を赤らめる香鈴に、燕青がもの申した。 「なーなー香鈴嬢ち《じょう》ゃん、俺にもお饅頭二つつけてくれよt。なんで姫《ひめ》さんだけなの」 「愛情の差でございますわ」 「…………そっか。俺、こんなにはっきり愛情の差を形で示されたの初めてだよ……」  しょんぼりと肩を落とした燕青に、秀麗は呆れ果てた。 「すねないの! 由官吏だって影月くんだって一つじゃないの」 「だって俺のがいちばん小さいぞ! 会ったばっかの由准より俺のが下ってことじゃん!」 「何いってんのみんな同じ大きさよ。……んもうほら、半分あげるから」  まるで 「姉と幼い弟」のようなやりとりに、由官吏は額を手で押さえてしまった。 「……紅州牧、《しゅうぼく》あまり浪州声《ろうしゅういん》を甘やかしてはいけません。一つでよろしいのです」 「あ、いいんです由官吏」  保護者気分の秀麗はそういいながら饅頭を半分に割って、身を乗り出すと、いじける副官の皿にちょこんと置いた。  そのとき隣《となり》の席から漂《ただよ》ってきたふんわりとした香《かお》りで、影月の手にした饅頭にだけ栗《くり》が入っていることに気づき、秀麗は思わず笑ってしまった。 (なるほど、『愛情の差』ね……)  お饅頭二つと、特別栗入り鰻頭では、果たしてどちらが上なのだろう。  すると秀寮の割った饅頭を見て影月も気づいたらしく、そろっと香鈴を見た。影月が饅頭を見比べる様子で、自分が仕組んだ 「特別」を本人に知られてしまったことを察した香鈴は、ぱっと頬《はお》を染めるとその視線に気づかないふりをして足早に出て行ってしまった。残された影月はといえば、やや赤くなってもくもくと栗饅頭を食べている。  ほほえましい様子に視線をやりながら、秀麗はこの場にいない家人のことを思い出す。 「……静蘭《せいらん》、またあちこち飛び回ってるの?」  燕青は饅頭をぺろっと一飲みにした。ちなみに彼はこの作り手への敬意不足な行動が、日々香鈴の愛情指数を暴落させていることにはまったく気づいていない。 「まあな、しヤーないって。どこの州も軍関係は机案《つくえ》仕事ばかりじゃ動かねtから」 「うん……」  武官の立場にある荘《し》静蘭は、茶州の軍部との折衝で《せつしょう》、秀麗たちとは完李正別行動をとっているのだ。秀麗は溜息をついて話題を変えた。 「……で、燕青、境噂で何が起きてるのか、そろそろ訊《き》いてもいい?」 「お?」 「だって茶州に入るまではあんなに急《せ》かしてたのに、ここにきて何も言わないんだもの」  不思議なのはそれだった。州牧赴任《ふにん》には、辞令発動から着任までに時間の制約が設けられている。期間内に州都の府城に辿《たど》り着けなければ、自動的に身分を剥奪《はくだつ》されるのだ。だからこそ  この金華までの旅路もたいそうな強行軍だったというのに、ここへきてすっかり|騒動《そうどう》の事後処理にかかりきりで、燕青は茶都・境噂への旅をいっこうに始めようとはしない。  秀麗が口火を切ったことで、影月も思慮《しりよ》深げに肯いた。 「燕青さんにも何かお考えがあるのかもしれませんが、そろそろ出立したはうがいいと思うんですけれど……。金華《,Jこ》から境埴まではゆっくり行っても五日ほどで着くとはいえ、赴任の期限までもう二十日ちょっとですし」燕青はなぜか由官吏と目を見交《みか》わした。 「まあな。でもあと一日二日待って? そろそろ柴彰《さいしょう》経由で最新の境埴情報が届くと思うからさ。そしたら出発しょうぜ」柴彰とは柴太守の|息子《むすこ 》で、若くしてここ金華の全国商業連合組合−いわゆる全商連の特区長をつとめている、やり手の青年商人《あきんど》だ。彼はいかにも商人らしい計算高さで 「八割の力を以《もつ》て」秀麗たち新州牧に仕えると約束してくれた。そして柴彰の掌握《し上でつあく》する優秀な情報網《ゆうしゅうじようはうもう》は、ときに国をも凌駕《りょうが》する。 「わ、さむ……」  話に水を差すように、冬の寒さをはらみはじめた風が、わずかに開いていた窓から吹《ふ》きこんできた。秀麗は立ち上がって半蔀《はじとみ》をおろしに行きながら、ふと思いついて、今も琥の州府に軟禁《なんきん》されているという、もう一人の州努のことを思い出した。 「ねえ燕青、鄭補佐《ほさ》のことなんだけど」  すると、なぜか燕青が妙に大きな音を立てて茶を飲んだ。 「う、うん? 悠舜のヤツがどうかしたか?」 「どうかって……あなたねぇ、なにそのいいかた。心配じゃないの? 凶悪犯を隔離《き喜つ.あくはんかくり》しておく牢獄塔《ろーユJくとう》の|天辺《てっぺん》に一年近くもいるんでしょう? それだけでも辛《つら》いでしょうに、お身体にも足にも、相当な負担がかかってるはずだわ。もうこんなに風も冷たくなってきてるのよ?」 「いや、その……隔離っていうか、もともと牢獄塔の内側から|鍵《かぎ》かけて立て籠《こ》もり始めたのは悠舜のほうだしな……まあ、あいつのことはそんなに心配しなくても大丈夫だって」そのあまりにも素っ気ない口調に、秀麗の片眉《かたまゆ》がつりあがった。 「なにそれ! |冗談《じょうだん》でもいっていいことと悪いことがあるわ、見損《みそこ》なったわよ燕青!」 「そうですよー燕青さん。今のは|不謹慎《ふきんしん》ですよ?」  さすがの影月も|真面目《まじめ》な顔になった。 「今までは州牧代理として最高決定権と代印をもってらっしゃいましたから、茶《さ》家に利用されないようにと塔に一人引きこもるのも意味がありましたけれど、秀靂さんと僕の赴任決定で州牧権限と|一緒《いっしょ》に茶家の狙《ねら》いもこちらに移ったことを思えば……悠舜さんが僕たちに対する人質《ひとじち》に取られる可能性だってでてきたんですよ? 下手《へた》をしたら、それこそ生命《いのち》の危険もありえます。琥に入ったら、真っ先に助けにいくべきだと思います」燕青は一瞬、《いつしゅん》実に|奇妙《きみょう》な顔をした。表情の選択《せんたく》に迷って真顔を作りかけ、しかしうっかり笑って失敗ーというような。そうして結局へにやっとにやけたのである。  秀麗は|呆《あき》れ果てた。いったいなんだって今の話で笑えるのか。 「なにへらへらしてるの! 笑いごとじゃないでしょう」 「いやうん、でも悠舜が聞いたら泣いて喜びそtだなぁと思って。なあ由准?」  すると、あたたかいお茶のせいか由官吏《かんり》はほっこりと頬を染めて、うつむきながら笑った。 「ええ。……きっとじーんとするのではないでしょうか。その姿が目に見えるようです」  なんだか今の由官吏のほうがよっぽどじーんとしている、と秀麗は思った。 「? だ、だって心配するのは当たり前でしょう。私たちを助けてくれる人なんだから」 「そうですよー。たったお一人で、孤立無援《こりつむえん》の州城で踏《ふ》みとどまってくれたかたですよ!?」  州牧二人が口々にいうと、燕青は笑った。 「そう思いやってくれる奴ばかりじゃないからさ。中央にいた頃《ころ》は色々ヤな目にあったみたいで、やけくそになって茶州に志願したっていってたし」秀寮と影月は目を丸くした。 「え。で、でも状元及第《きゅうだい》した人で、地方にいくとき散々引き留められたって聞いたけど?」 「有能だから、妬《ねた》みも買う。特にこ…あいつは足悪いせいで役立たずとかお荷物とか、散々言われたみたいでさ。七家の出でもないしな。いくら状元及第でも、最初から高官にはなれないだろ。下っ端《したぼ》時代はあっちこっち走り回るのが仕事みたいなもんだLL今年の春の、嵐《あらし》のような日々を秀麗は思いだした。あの仕事量はさすがに異常だろうが、新米官吏がする内容には違《ちが》いない。書類をかかえて多くの部署を駆《か》け回る毎日ー。 「あいつの足じゃ無理なんだそういうの。上司運もなかったみたいでさ、足を案じて机案《つくえ》仕事を回すとかより、出世頭《しゅつせがしら》の状元及第者を妬んで徹底《てってい》的にいじめ抜《ぬ》くようなタチ悪いやつらばっかだったみたいでな。んでついにプチされたらしい」由官吏はうつむいたまま口を挟《はき》もうとしなかった。 「なのに今度は、準試及第もしてない大《お》雑把小《れ》僧なんかが上司になっちまったんだから、いやー確かにあいつ上司運悪いわ。でもようやく運が向いてきたな」それほどうだろう。秀麗はじっと燕青を見上げた。……鄭補佐の上司運が向いてきたの《t》だとしたら、それは今ではなくて、きっと十年前からのことに違いない。 「悠舜のことは心配ないって。何があっても、あいつは着任式の準備を|万端《ばんたん》に整えて、境壇で姫《ひめ》さんたちを待ってる。……おれの師匠《ししょう》も助《すけ》っ人《と》に入ってるしな」由官吏もようやく顔をあげ、にっこりと笑った。 「浪州芦《しゅういん》のおっしゃるとおりです。鄭補佐のことは何も気になきらなくて大丈夫ですよ」  二人の不思議なまでに揺《ゆ》るぎない自信に、秀麗のほうが|驚《おどろ》いた。 「……絶対なの?」 「これに関しては絶対。だからさ、助けようとか考えなくていいからな? うーん、こういえばいいかな。悠舜をどうこうするのは、今回ぽっかりは朔でも不可能」燕青はにっかと笑った。 「これでも打てる手はとりあえず全部打ってきたんだぜ。それにさ、代替《だいが》わりが決まったとき、俺と悠舜で決めたことがあるんだ」 「決めたこと?」 「すべての権限を、すべてあるがままに。可能なら最高の形で次の州牧たちに譲渡《じトやフと》を」  静かな言葉からは、十年州牧《しゅうぼく》をつとめた誇《はこ》りがにじみでていた。 「俺たちが十年かけてやってきたものの、最後のしめくくりはやっぱカッコ良く決めてーよなってさ。姫さんたちの最初の苦労を少しでも減らしてやるのも、前任者としてしてやれる最後のことだから、そのために俺たちはできうる限りの布石を打ってきたし、今も打ってる。茶家の動きにも、勿論《もちろん》自分たちの身の処し方についてもな。だから着任式までは、姫さんたちは自分のことだけ考えてればいい。俺と違って悠舜はマジで有能だし、本当に大丈夫だって。信頼《しんらい》してやって?」由官吏も|微笑《ほほえ》みだけで燕青の言葉を肯定《こうてい》した。  それは絶対の信頼関係。 (これが、燕青が十年かけて築いてきたものなんだ)  そしてこれからは自分たちが、彼らのあとを引き継《つ》ぐのだ。それは大変な重責だけれど。 「……なんだか、僕たちって本当に幸せですねー」  ぽつんと呟《つぶや》かれた影月の言葉は、まさに秀寮の思いでもあった。彼らが二人して、未熟な自分たちの補佐《ほさ》についてくれる。これがどんなに心強いか。  しかし由官吏はその言葉を別の意味にとったらしく、こんなことを言った。 「ええ、あなたがたの最初の赴任地《ふにんち》が茶州《ここ》というのは、主上のご英断といえますね」  秀麗も影月もきょとんとした。 「は?」 「茶《−つ》州《ち》府は浪燕青という前例がありますからね。準試にも及第していない十七歳の州牧などという非常識な存在に比べたら、あなたがたの特異性など何の問題にもなりません。むしろ国試状元及《およ》び探花及第者のご着任ということで『やっとまともな州牧が!』と州府をあげて大喜びというものです。これまで十年も浪前州牧の無|軌道《き どう》ぶりと付き合ってきた身とすれば、年齢《ねんれい》性別経験など|些末《さ まつ》なことです」春にはズパリそれで散々いじめられたのに、由官吏は些末のひと言で終わらせてしまった。 「……なあ、なんかさりげなく俺に対してひどいこと言ってねー?」  燕青のちょっとした意見も、由官吏はサラリと無視した。 「それにこの茶州が中央官にとってどのような呪《のろ》われた赴任先かは誰《だれ》もが知っております。無事に中央へ帰った州牧などほんの少数。そんな州にいらしてくださっただけでその勇気に敬意を払《はら》うだけの価値があります。……それに本人を前にしていうのもなんですが、浪前州牧は正規の官吏ではありませんでしたから」 「……本人を前にしてって、そこで使うかよ」誰も掩《い》れてくれないので、燕青はトポトポと自分で自分の茶を注《つ》いだ。 「でもま、事実だよな。俺の州牧としての権限は茶州内限定だったし、かといって悠舜も州牧じゃねtL。どう考えても他州と同等じゃねtもんな。もろ『中央に見捨てられた州』って感じでさ」その通りです、と応じたのは由官吏だった。 「実際、みな心の底では不安だったと思います。そこにようやく、幼Lといえども正式な手順を踏んだ州牧が決定し、しかも主上はお二人に�花″までお授《さず》けになったというではありませんか。その一報を受けたときの州府の喜びようはすごいものがありましたよ」 「あー聞いた聞いた。なんかあいつら浮《■ワ》かれて次々川に飛びこんだって?」秀麗と影月は寝耳《ねみみ》に水の話に唖然《あぜん》とした。  由官吏は身内の恥《はじ》をばらして恥《は》ずかしいとでもいうように口許《くちもと》に手を当てた。 「……本当は報《しら》せに喜んで皆《みな》で宴《えん》を開こうとして、主菜に魚を釣《つ》ろうとしたらしいのですが、嬉《うれ》しさのあまり一人が思わずくるくると飛びこんだら、なんだか連鎖《れんさ》反応で次々と……とか。流された何人かをあとで川下で拾い上げるのが大変だったみたいですよ」  それを聞いた燕青が腹を抱《かか》えて爆笑し《ぼくしょう》た。 「あっはっは! ばっかでー最初の一人って絶対者才《めいさい》だろ!?夏が近くて良かったよなー」 「……あなたに|馬鹿《ばか》と言われたと知ったら、著才も人生に絶望すると思いますよ」 「あのう……な、なんでそこまで喜んでくださったんですかー?」  影月が思わず訊《き》いてしまう。よくわかっていない様子の二人に、由官吏は小さく微笑《ぴしょう》した。 「�花″は主上の絶対の信頼の証《あかし》です。官位に拘《かかわ》らずただ王の御心《みこころ》によって授与《じゆよ》する、百官にとって最大の栄誉《えいよ》なのです。王が心を寄せる�花″の地方赴任など、|滅多《めった 》にあるものではありません。主上はあえてあなたがたを茶州に派遣《はけん》することで、もはやこの州を捨て置かぬという意思表明をなきったのです。……それがいかに茶州府にとって光明となったか。�花�の授与はあなた方を守ると同時に、茶州の嘆《なげ》きもすくいあげた見事な一手といえましょう」秀器はぞくりとした。震《ふる》える指を思わず額に当てる。  あの人は、いったいどこまでを考えに入れて動いているのだろう。かつてともに過ごした他《た》愛《わい》ない時間がまるで幻《まぽろし》のようにさえ思えてくる。   ー私が去年の春にお饅頭《まんじゆう》をつくってあげたひとは、誰。 「本来ならば茶家に対する一手にもなりえたはずなのですが、茶一族は�花″に対して|呆《あき》れるほど無理解なのです。適当にばらまかれる称号《しようごう》の一つくらいとしか思っておりません。前王の時代に�菊《きく》″を下賜《かし》された茶太保《たいは》の件があるからでしょうが……もともと中央進出率の低い家とはいえ、他州の官が聞いたら|卒倒《そっとう》ものの|認識《にんしき》です」茶州に入るまでの道中を考えると、たしかに驚くべき手加減のなさで迫撃《ついげき》があった。仮にも�花″を二人も連れた一行に、茶家の手の者は問答無用で|襲《おそ》いかかってきたものだ。あそこまで堂々とやられると逆に感心するよな、と燕青も笑う。 「そうそう、それに特に姫さんの最初の赴任先にしてもさ、茶州は良かったと思うぜ」 「え? ど、どうして?」  秀麓の胸の内などいざ知らず、燕青はお茶を飲みながらにやにやと笑った。 「んt、前にも言ったけど全商連茶州支部はさ、柴彰の姉ちゃんが仕切ってんだよ。で、茶州府の官給晶仕入れ先は、まさにその全商連なわけ。今の茶州府で、女だからってその能力を侮《あなど》る怖《こわ》いもの知らずは誰もいない。男顔負けどころか負けっぱなしだ《・》」 「ええ。ですから紅州牧が女性であることに対する|偏見《へんけん》は他州府より少ないと思います。もともとそんなことを重要視するようなまともな官吏《ヽヽヽヽかんり》はとっくに逃《に》げ出してますし、猫《ねこ》の手も借りたい忙《いそが》しさの州府内では、政務が最優先でそんな論議などする|暇《ひま》もありません。主上がそこまでご存じだったかは疑問ですが、女性官吏の初赴任地としては最適だったと思いますよ」多分知っていたのだろうと、今の秀貰ならば確信をもってそう思える。 (劉輝《りゆうき》は、私たちの王だもの)  妃《きさき》になるのではなく、彼の治世を扶《たす》ける力になりたいと思った。どこか不安定な子供っぽさを残すあの王が、すべからく彩雲国《さいうんこく》の民《たみ》を守り、臣下の尊崇《そんすう》を一身に集める国主になればいいと。それが現実になりかけている。なのに、秀麗は置いてけぼりをくらったような、胸にぽっかりと穴があいたような気がした。多分、これから何度も同じ気持ちを味わうのだろう。  続か《ひぎまず》ないと約束した。けれどそれを守れる自信がどんどんなくなっていく。王としての一面を知るほどに、『劉輝』との想《おも》い出が侵食《しんしょく》されていくような気がした。確かにあったはずの対等な友情や愛情が、畏敬《いけい》という名に変換《へんかん》されていく。心の距離云々《きよりうんぬん》の問題ではない。器《うつわ》からあふれるほどの才気にごく自然に頭《こうベ》を垂れそうになる。  その立ち位置は経紋《こうゆう》様や藍《らん》将軍と同じだ。いかに近しくても、劉輝と呼び捨てすることは決  してない距離。暖かいけれど、思いだしたように時折水溜《みずた》まりに足をつっこむところ。  行かないでくれと劉輝が懇願《こんがん》したその場所に。  踏《ふ》みとどまれるだろうか。忘れないでいられるだろうか。たった一人で立つ彼の心に対等な親愛の情をもっていつまで寄り添《そ》えるだろう。 「……秀麗さん? どうしましたー〜ご気分がすぐれませんか?」  心配そうな影月の声に、秀麗は我に返った。 「あ、ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて。なんでもないわ」 「お疲《つか》れなのでしょう。ああ、もうこんな時間に。お二人とも、どうかお休みください」  由官吏が促《うなが》したそのとき、|扉《とびら》の外から声がかかった。 「失礼致《いた》します。柴彰殿《どの》から面会の申し入れが」  その場の全員が顔を見合わせた。……全商連の情報の速さと正確さは州府を遥《はる》かにしのぐ。 「いーよ。いれてやって」  ややあって、金華太守《たいしゅ》の子息でありながら全商連金華特区長をつとめる柴彰が、にっこりと笑って入ってきた。 「夜更《よふ》けにお訪ねすることの非礼をお許し下さい。少々興味深い報が入ってきたもので」  柴彰は笑顔《えがお》を崩《くず》さず、小ぶりの丸眼鏡《めがね》を押し上げながらごく簡潔に言ってのけた。 「鄭補佐《ほさ》の命により、四日前をもちまして州都境嗜全面封鎖《ふうさ》令が発布されたとのことです」       ・態魯希書  その晩−というか真夜中、秀麗は金華郡府の庖厨所《だいどころ》を借りて、一人でせっせと饅頭をつくっていた。時刻が時刻なので当然だが、誰もいない。 (考えてみればお饅頭づくりも久々だわ……)  昔から色々考えこんだときは家事にいそしむのが癖《くせ》だったことも、このところはとんと忘れ果てていた。 『なあ姫《ひめ》さん、そーろそろ静蘭《せいらん》と牡据《はらす》えて話してやって?』  執務室《しっむしっ》から出るとき、燕青に何気なくいわれたひと言が頭の中でこだまする。  饅頭が蒸《む》し上がるのを待ちながら、秀麗は|溜息《ためいき》をついた。 (まったく、燕育って大雑把《おおぎつぼ》なように見えてほんと鋭《するど》いんだから)  それぞれの仕事が忙しく、静蘭とはここ十日ほどは話すどころかろくに顔さえ合わせた覚えもない。けれど 「仕事が忙しい」というのは多分原因ではなく、理由なのだ。お互《たが》いに。  別に喧嘩《けんか》をしたわけではないけれど、何かひと言が足りないのだと思った。だから秀麗は会わない間、ずっと考えていた。  しかしそのひと言がなかなか思い浮かばない。  それでも、もう明日からはのんびりしていられない。悩《なや》む時間もない。  だから秀麗は饅頭をつくることにした。 (とりあえず死ぬほど考えたし、もうあとはー)  饅頭が蒸し上がる頃《ころ》、不意に扉口に影が差した。 「……お嬢様? 《じょうきま》ここにいらっしゃるんですか?」  秀麗は久しぶりに見る家人に、思ってもみないことだが笑ってしまった。  いつだって静蘭は、自分をちゃんと見つけてくれる。 「静蘭、ちょうどよかった。よかったらお茶にしない?」 「……もうほとんど寝《ね》る時間はありませんよ? お嬢様も連日の政務でお疲れでしょうに」  静蘭との会話は表面上はいつも通りだったけれど、やはり秀麗には違和感《いわかん》があった。どこといわれてもはっきりとはいえないけれど、何かが少し違《ちが》う。  秀寮は内心首を傾《かし》げつつお茶を掩《い》れた。いったい何が足りないのやら。 「だからよ。はっきりいって今寝たら、いくら私でも明け方の出立に起きられる自信ないわ」 「……まさか境噂が全面封鎖されてしまうとは思いませんでしたからね」  静蘭もさすがに呆れたように笑うと、できあがったばかりの饅頭を皿に盛った。 「ねぇ、州牧《しゅうぼく》二人とも閉め出されちゃったわよ。もう笑うしかないわよね。まったく何度目の『こんな州牧以下略』かしら。しかも聞いた? 境壇で流れてるっていう噂」《うわさ》 「あ!…‥」  反応からするに、どうやら静蘭も聞いたらしい。秀麗はついさっき境埴封鎖情報と併《あわ》せて柴彰から立て続けに聞かされたトンデモ話を思いだした。  ……このごろ判明したことだが、この若き凄腕《すごうで》大商人はいついかなる時も常に適当そうな態度と笑顔を崩さない。『手の内をすべて見せるのは商人としてあるまじきことです』というのが信条の彼は、その若さにして鰻《うなぎ》のごとくつかみどころのない面妖《めんよう》さを併せもつツワモノであった。さすが 「協力」まで八割に値切る男である。  その柴彰が『思った以上に打つ手が早かったですねぇ』と眼鏡を押し上げながら、まるで仕入《事》れの確認報告のように告げたところによると−。 「全面封鎖の理由は、新《ヽ》州《ヽ》牧《ヽ》二《ヽ》人《ヽ》は《ヽ》す《ヽ》で《ヽ》に《ヽ》境《ヽ》噂《ヽ》に《ヽ》大《ヽ》都《ヽ》を《ヽ》果《ヽ》た《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》、その着任式までの間、あらゆる危険を避《さ》けるための安全措置《lてち》ですって」|呆《あき》れ果てはしたが、同時に秀麗は茶家の狡猾《こうかつ》さに舌を巻いた。正式な公文書である以上、そこにごまかしのきかない州牧人都の日付を記すことはできない。鄭補佐が記した全面封鎖令の理由はおそらくは後半部分のみで、前半は発布と併せて茶家が意図的に流した噂に間違いなかった。日付がないがゆえに、信憑性《し一屯びようせい》も増す。逆手にとられたのだ。 「しかも境璃大都を果たした新州牧二人は現在茶家の庇護《ひご》下におかれている−ね」 『早くも茶家に取り込まれたようだと、境埴内での新州牧たちに対する評価は、供給過剰飽和《かじようほうわ》状態市場の値のごとく現在下落の|一途《いちず 》をたどってます』と諷々と《ひようひlよう》つづけた柴彰は、秀麗の見た  ところ明らかに離別がっていた。さあ、どうします…? そう問う声さえ聞こえてきそうだった。力添《ちからぞ》えを約束してはくれたが(しっこいようだが八割)、政事への介入《かいにゅう》は論外という商人の立場を守る彼は、完全なる第三者として、事態の推移を実に興味深げに観察している。 「茶家もとんだ噂をばらまいてくれちゃったものね」 「……赴任《ふにん》期限までは、あと二十日と少ししかありませんし」  蒸し上がったばかりの饅頭《まんじゆう》を割ると、中の解《あん》からほかほかと湯気がたった。さすがに残された日付を思いだすと顔が引きつる。 「そうなのよ。あと二十日ちょいなのよ。冗談じ《じょうだん》ゃなく目の前が真っ暗になったわよ」  茶州州牧の着任までの猶予《ゆうよ》は三月《みつき》。それを過ぎても着任式を行えなければ道中不慮《ふりよ》の事態が起きたと見なされ、即時《そくじ》官位剥奪《はくだつ》となる。本来なら貴陽《きょう》から茶州州都境壇までひと月半で|到着《とうちゃく》可能なのだが、�殺刃賊《さつじんぞく》″の一件で金華到着までにすでにふた月弱もかかってしまった。しかし金華から境埴までは急いで五日の距離なので、なんとか間に合うだろうと思って金華郡府でせっせと事後処理をしていたのに、ここへきて境埴全面封鎖の一報だ。 「燕青なんか、なんていったと思う?」 「……『あっはっはー。じゃ、明朝出立で∈ 「すごい、当たりよ静蘭。さすが旧友ね」  ぱちぱちと手を叩《たた》くと、静蘭が心底嫌《いや》そうな表情をつくった。 「お嬢様、それは誤解です」  吐《ま》き捨てて、それから急に言葉を改める。 「で、なんだって急にお饅頭をつくりはじめたんです?」 「んtとね……」 「何か、お悩みですか?」  当たり前のようにつづけられた言葉に、秀麗は目をまたたき、そして笑った。 「……だから私、この世で二番目に静蘭が好きよ」  気づいたときには、ごく自然にその言葉が口からすべりおちていた。  室《へや》にいないのを心配して探しにきてみれば、彼の仕える主家の姫は、薄暗《うすぐら》い庖厨所でなぜかせっせと饅頭をつくっていた。  久しぶりに顔を合わせた彼女は、いつもと同じ笑顔で、お茶にしない〜と言ってくれた。  内心ホッとしたが、同時に静蘭はなんだか少しだけ落胆《らくたん》した。  それを押し隠《かく》すために|妙《みょう》に当たり障《さわ》りのない会話をして、結果、どことなくちぐはぐな空気になった。せっかくの好意を無にしてしまい、静蘭はほとほと自分に嫌気《いやけ》がさした。いつのまにこうも自分は不器用になったのか。  そんなふうに自己|嫌悪《けんお 》の真っ最中だったからこそー。 『この世で二番目に静蘭が好きよ』  |唐突《とうとつ》にそういわれたとき、|一拍《いっぱく》おいて茶を吹《ふ》きだすという大失態を演じてしまったのだ。それどころか本気でむせ、しばらく秀麗に背中を叩かせてしまった。 「……ど、どうしたんですいきなり」  さすがの静蘭もそれしかいえなかった。対する秀麗もあやふやに首を傾げている。                                                                                                                                                                                                                      ヽょ 「あ!…‥うん、私も自分で言ってびっ》れ直したから」  差し出されたお茶を静蘭が受けとるのを見てから、秀麗も自分用にお茶を注いだ。 「なんか、ついぽろりと。我ながら今のって『この世で二番目に桃鰻《ももまん》が好きよ』くらいすごく自然に言っちゃったわねぇ」照れ隠しなのかなんなのか 「おほほ」と妙な笑い方をする秀麗とは対照的に、静蘭はかつてないほど動揺《どうよう》しまくっていた。人生最大に頭が回転しているのがわかるのに、最悪に空回りして何一つまともな答えを弾《はじ》きだきない。変な|汗《あせ》がでてきた。  1−この世で二番目。ついぽろり。桃鰻と同じ。すごく自然。静蘭が好きよ−もはやこれらが喜ぶべき言葉なのか 「それはちょっと…」と嘆《なげ》くべき言葉なのかさえ静蘭には判断がつかなかった。表情も態度も言葉も、いまだかつてないほど選択に困った。単語だけはポコポコと浮《−つ》かんではくるものの、どれもちぐはぐでふさわしくない気がする。むしろ 「そ、そんな〜おろおろ」とそのへんを|馬鹿《ばか》みたいに転がるのがいちばん適当な気がしたが、それは  性格上絶対に不可能な行動だった。 (……自分のこの高い鼻っ柱が憎《にく》い……)  心底そう思った。これが燕青なら即座《そくぎ》に 「マジで〜? 俺も姫《ひめ》さんかわいくて好きだぞ。でもこの世で二番目ってどゆこと?」とあっけらかんと訊《き》いたろうが、まず思考・|分析《ぶんせき》・行動ありきの静蘭には到底《とうてい》無理な芸当だった。しかもとうにその時機を逸《いつ》していた。  なお悪いことに、自分が何一つ取り繕《つくろ》えないまま|硬直《こうちょく》しているのに、お嬢様は 「おほほ」のあとはすぐ気を取り直してのんびりとお茶を飲み、蒸し鰻《まん》をほおばっているのだ。 (おほほのあと……な、何かちょっと解説を……)  藍楸瑛《しゅうえい》さえやりこめるほどの男が、相手の言動の解説をこれほど切に願ったのは生まれて初めてかもしれなかった。ちなみに藍龍蓮《りゆうれん》の不可解な言動に関しては、自分の人生に関《かか》わってこないので解説されなくてもいっこうに構わない。 「ね、こうやって静蘭とゆっくりするのも、久しぶりね」 「え、あ、そそう、でス、ね」  動転のあまり、おかしな具合に言葉が切れた。しかも次の言葉がつづかない。 「なんか、私に聞きたいこととかある?」 「は? ど、どういう……?」  静蘭は生まれてこのかた、これほど自分が馬鹿だと思ったことはなかった。  かたや彼の大切なお嬢様《けレよゝフさま》はいたって思慮《しりよ》深げで、これではいつもと立場が逆だ。 「昔から家族で静蘭に甘えて迷惑《めいわく》かけてきたから、それが|普通《ふ つう》になっちやって、もしかしたら迷惑かけてるのにも気づいてないのかもって、思って。……あのバカ若様のことで、ずいぶん静蘭に心配かけちゃったみたいだし、出発する前に気になることは訊いていいわよ?」心が、|驚《おどろ》くほど落ち着きを取り戻した。  彼の大切なものは片手ですくえるくらいにとても少なくて、そのすべては今まで決してこぼれ落ちないものだと思っていた。揺《ゆ》るぎないものと思っていたものが、必ずしもそうではないと知ってしまった。不安で、自分がどこにいるべきなのかも見失ってしまった。 『私だって静蘭のことをちゃんと見ているから』  あの約束を、秀麗は守ってくれている。  ちゃんと『特別』だといってくれたのに、らしくもなく揺らいでしまった自分の手を、こうしてつかんで引き戻してくれる。  揺らいでいるのは彼女も同じはずだ。支えるのは自分の役目だったはずなのに。  静蘭はこめかみをもみほぐした。……まったく情けない。 (……劉輝には絶対見せられないな……)  昔も今も変わらずに、その掌《てのひら》に絶対の敬慕《けいぼ》を載《の》せてためらいなく差し出してくる弟。彼の前でだけは、静蘭はいつだって|完璧《かんぺき》でありたいと願っていた。あの子にとって完璧な兄に。 「静蘭、もう一杯《いつぼい》飲む?」 「あ、はい。いただきます」  いつものように、秀麗がお茶を掩《い》れてくれる。たったそれだけで、ちぐはぐだった俵《は》め絵《え》の欠片《かけら》が、あるべき場所におさまったことを静蘭は感じた。 『この世で二番目に静蘭が好きよ』  なんの気負いもなくひょいと鞠《まり》のように投げられたあのひと言があればこそ。 (まったく……)  かなわないと思うのはこういうときだ。   −その|優《やさ》しさゆえに、少女はときどきずっと大人になって、彼に手を差しのべてくれる。 (あ、いつもの静蘭)  憑《つ》きものがおちたようなサッパリした顔に、秀麗はホッとした。 「お嬢様」 「うん?」 「さきほどの、一番目はどなたかお訊きしても?」  静蘭の声になぜか緊張が《きんちょう》混じる。秀麗はあっさり答えた。 「ああ、父様よ。あんなダメ父でも色々あって、ずっと一番なのよねt。でも、母様は別格なの。……なあに? 私そんなにおかしいこと言った?」 「いいえ」  そのくせ目が笑っている。柔《やわ》らかな笑いを|含《ふく》んだまま、静蘭は言った。 「お嬢様は、茶朔泡が《さくじゅん》お好きですか?」  今度は秀麗が茶を噴く番だった。……確かに訊きたいことは訊いていいと言ったけれど。 「せ、静蘭にしては|珍《めずら》しく直球で来たわね」 「変化をつけたほうがよろしかったですか〜」  秀麗はこめかみをおさえた。変化をつけるも何も。 「……や、これぽっかりはわからないって答えるしか」 「おや」 「……静蘭も知ってるでしょ、私、|恋愛《れんあい》方面とんと疎《うと》いんだもの」  潔《いさぎよ》く秀麗は認めた。  ……正直、あの若様に関してはなるべく考えないようにしていた。それでもいずれとことん考え抜かねばならないのだとも、心のどこかでわかっていた。 「ほら、うちの母様って、父様とすごく仲良かったじゃない?」 「? ええ」 「子供心にも覚えてるわ。たくさん私を愛してくれた。私小さい頃《ころ》はよく熱出して寝込《ねこ》んでたけど、いつもすごくにぎやかで、楽しかったわよね」静蘭は妙な顔をした。 「……ちょっと違《ちが》うような気がしますが。にぎやかだったのは、奥様がお嬢様のためにお薬湯をつくるたびになんでか|爆発《ばくはつ》させていつも大騒《おおさわ》ぎになったからですよ。奥様は薬湯づくりの名人で効き目も確かでしたけど、つくる|途中《とちゅう》で必ずおかしなことが起きて」配合は確かなのに、何がどうなってそうなるのか、いつも何かしら事故が起きたのだ。 「あーそうそう、それでよく静蘭が飛んでいって怒鳴《どな》ってたのよね。そういえば静蘭が初めてしゃべったのって、母様が私の|枕元《まくらもと》で薬湯づくりをしてて薬を爆発させたときだって聞いたことあるわ。寸前で私をかばって『この子に怪我《けが》させたらどうするんです!』って。本当?」 「……事実です。あのときは命にかかわる大火傷《おおやけど》の危機だったんですよ、お嬢様」 「うーん、本当に昔っから家族そろって静蘭に迷惑かけまくってきたのねぇ……」静蘭はお茶を飲むことでそれに対する返事を避《さ》けた。 「静蘭も……母様の身体《からだ》のことは、知ってるわよね?」 「…………」 「子供はできないって言われてたから、私が生まれたのは本当に奇蹟《させき》で、嬉《うれ》しくて、かわいくて、何がなんでも愛してやまないんだって、よく母様は枕元で笑ってたわわ。……でもその奇蹟と引き換《か》えに、私の身体は人より弱かったんだと思う。お医者にも匙《さじ》投げられるくらい」 「お嬢様……」 「子供って案外鋭《するど》いのよ? 隠《かく》してたってわかるものはあかっちゃうわ。でも母様の薬湯を飲んだあとは、しばらくは普通の子供みたいに元気になれて。二胡《にこ》を教わったのも、静蘭と柿拾《かきひろ》いをしたのも、|礼儀《れいぎ 》作法を叩《たた》きこまれたのも、|一緒《いっしょ》にお鰻頭《まんじゆう》をつくったのも、私が次に熟を出すまでのちょっとの間。時を惜《お》しむみたいに、たくさんのことをしたわね。……でも、時が尽《つ》きたのは私じゃなくて母様のほうだった」子供だったけれど、秀麗は覚えている。あのとき、どんなに父が絶望したか。 「……私があんまり、恋《こい》とか愛とか……そういうのに目を向けなかったのは、母様のこともあるのかも。……自分に自信ないし、安心して誰《だれ》かを好きになるのが怖《こわ》かったのかもしれない。健康になってからも、死ってすごく身近だったし……九年前は特にね。置いていくのも置いていかれるのも、怖かった。もう父様と静蘭だけいればいいって思ったもの。だから特別に大切な人をつくらないようにしていたのかもしれないわ」ではなぜ、よりによって朔泡に心が揺れたのか。それが秀麗にもよくわからない。惹《ひ》かれているというのも少し違う気がする。はたしてこれが、恋とか愛とか名付けられるものなのか。  そんな判断すら秀麗にはつかないのだ。 「うーん、そうやって今まで目をそらしてきたのに、あの人、めちゃめちゃ強引《ごういん》にそういうことを考えさせようと画策してて。かなりへソだけど顔はいい男だから、私ったらうっかりドキドキして勘違《かんちが》いしちゃったとか、そういうことなのかしら」秀麗の懸命《けんめい》な自己|分析《ぶんせき》に、静蘭が思わずといったふうに吹《ふ》きだした。 「……な、なかなか客観的な|分析《ぶんせき》ですね」 「……なんで笑うのよ。美形の静蘭にはピソとこないかもしれないけど、普通の人にとっちゃ顔の善《よ》し悪《あ》しってすっごく重要なのよ。いっとくけど静蘭に|真面目《まじめ》に口説かれたら、十四年のつきあいの私だってかなりドキドキするわよ」  静蘭はちょっと|眉《まゆ》を上げた。 「本当ですか? 嬉しいことをいってくださいますね」 「……だからそういうことをぺろっといわないの。単なる|冗談《じょうだん》でも凡人《ぼんじん》には刺激が強すぎたりするんだから。静蘭だって、私が真面目に告白しても笑い飛ばせるでしょうけど、胡蝶妓《こちょうねえ》さんが相手だったら冗談だってわかっててもドキドキするでしょ〜それとおんなじよ」静蘭はあえて反論しなかった。 「なんていうの? 反射〜生理的作用? あのお|騒《さわ》がせ若様がそういうところを見事についてきたのは否《いな》めないと思うの。それを観察するのもすごい好きそうだし。や、もしかして私って単に押しに弱いだけなのかしら。あーでもあれって押しなの?」実のところ、ちょっかいをだそうとした近所の|小僧《こ ぞう》どもは、押し以前に静蘭が一睨《ひとにら》みで|黙《だま》らせてきたし、弟は今のところ押すより待つほうに重点を置いている。もともと本人が押されても天然でかわしてきたところもあるので……確かに秀寮は押しに免疫《めんえき》がないかもしれない。しかし朔洵ほどあからさまに押しまくってようやく 「あれ押し?」となるのもある意味すごい。 (鉄壁《てつベき》というかなんというか……さすが旦那様《だんなさま》のご息女というか……) 「……ごめん静蘭、なんか全然答えになってないかも」 「あ、いいえ。きちんと考えてくだきって、ありがとうございます」 「そ、そう?……う、まずいわ。一生懸命《けんめい》しゃべってたら本格的に眠《ねむ》くなってきちやつた」  静蘭はくすくすと笑うと、あくびをする秀麗の頭をそっと撫《な》でた。 「よろしいですよ。ちゃんと起こして差し上げます。もうあまり時間はありませんが、少しでも仮眠《かみん》をとれば違いますから」 「……でも静蘭だって」 「体力が違いますから、私のことはお気になきらず」秀麗は必死で|瞼《まぶた》を押し上げようとしたが、目がぐるぐる回っているような感覚に降参した。 「じゃ、ごめん……ちょっと寝るわね」 「はい」 「そうだ……私の�菅″《つぼみ》……|馬鹿《ばか》若様から取り返さなくちゃ、ならないけど……」 「はい?」 「あれは私のだから、私が自分で|頑張《がんば 》るね……静蘭、あんまり私を甘やかしちやダメよ」  とろとろと瞼がさがっていき、ついにはこてんと卓子《たくし》に頬をついてしまった。  静蘭は苦笑《くしょう》しつつ、秀麗のちいさな肩に触《かたふ》れた。抱《だ》き上げようとしてちらりと|扉《とびら》を見る。 「……こらそこの、こめっきパック」 「あ、あら、気づいてた?」  ひょっこりと顔を見せた燕青に、静蘭は|溜息《ためいき》をついた。 「馬鹿の一つ覚えとはお前みたいなやつのことを言うんだ」 「姫《ひめ》さんが眠った途端《とたん》これだもんなー……」  燕青は|大股《おおまた》で室《へや》に入ってくると、残り一つとなっていた蒸し饅頭《まんじゆう》をひょいとつまんだ。 「んー久々の姫さん饅頭。冷めてもうまいなんてさすがだぜ」  そして静かな寝息《ねいき》を立てる秀麗をのぞきこむ。 「ほんっとそこらの男どもより男前で克己心《こつきしん》あふれてるよな。もう偲《ま》れ膠《ぎ》れしちまうぜ。姫さんきっと、お前に甘えられてることとか全然気づいてないよな」静蘭はムッと眉を寄せたが、反論はしなかった。無言のまま燕青の上衣を問答無用で剥《む》くと敷布《しきふ》にし、自分の上衣を掛布にして秀麗をそっと寝かせる。 「いーんじゃん? お前みたいにやたらめったら衿持《きト雪フじ》高いやつはさ、身近に三人くらい大人なやつがいないといつのまにか息の仕方も忘れて|窒息《ちっそく》しかねないからな。……まったくよくできてるよなt、姫さん、邵可《しゝやつか》さん、俺。ちょうど三人であまりナシ」 「最後のはこめっきバッタと取り換えろ。ちょうど今の時期はどこもかしこも跳《と》びはねててお前なんか用無しだ」 「……冬はビーすんだよ……。お前の甘え方って、ほんっとわかりにくいよなぁ」多分、素直《すなお》に甘えるのは邵可に対してくらいなのだ。自分にはこんなんだし。と燕青は内心でひとりごちる。秀麗に至っては、甘えられている意識などカケラもないだろう。だからこそこのあまりに誇《ほこ》り高い青年の心の拠《よ》り所《どころ》となれる。  りーりーと、虫の音が耳に優しい。 「克もさ、今日発《た》ったって」 「……そうか。茶家に紅家からの圧力は?」 「いや。吏部尚書《りぶしょうしょ》は今回動かないみたいだ。……ほんと姫さん大事なんだなぁ」  ああ、と静蘭は応じた。 「しかし、そうすると朔洵が茶家当主になる可能性も消えたか」 「だな。もともと『努力と根性? 《こんじょう》血と|汗《あせ》と涙? 《なみだ》ふっ、そんな文字は私の辞書にはないな』ってやつだしなー」茶家当主の座に興味を示したのは、秀麗を手に入れるには避けて通れない相手−紅家当主紅黎深《れいしん》と相対するとき、その肩書《かたが》きがあれば便利だからだ。けれど紅黎深が動かない今、あの|享楽《きょうらく》至上主義者が茶家当主に執着《しゅうちゃく》する確率はどれくらいか?(……ビー考えたって皆無《かいむ》だろ)紅黎深が相手をしないのなら、朔泡にとって茶家当主の座に価値はない。身内が危機に陥《おちい》ろうがお家が断絶しょうがまるで頓着《とんちゃく》しないだろう。傍観《ぼうかん》どころか面白《おもしろ》がって火を焚《た》きつけるかもしれない。茶家の力を利用することはあっても、必要とはしない。茶朔泡という男は、茶鴛《えん》抱《じゅん》とは違う意味で、家名なしに生きていける男だった。 「結局、草《そう》ちゃんは殺《や》られ損かぁ」 「弟の手できちんと埋葬《まいそう》されただけマシだろう。……克陶《あれ》は意外に見込みがある」 「だろ。でも、相手は仲障《ちゅうしょう》じーちゃんと、朔だからなt。朔がああいうやつって知らなかったから焚きつけちったりしたけど……ちょっと|後悔《こうかい》」 「知った上で歩き出したんだろう。だから見込みがあると言ったんだ」 「まあ、そうだけどさ」  静蘭は|珍《めずら》しく伏《ふ》し目になっている燕青をちらりと見た。 「仮眠をとるから、時間になったら起こせよ」 「……はい!?俺は!?」 「体力あり余っているくせにずっと机案《つくえ》仕事してたんだからそんくらいしろ」 「う、うわーそれって俺のせいじやねーじゃんよー」  静蘭の慰《なぐき》め方は、あまり燕青には優しくないのだった。       ・翁・巻・  細い月はすでに西の莫《そら》ぎりぎりまで傾《かたむ》き、東の臭はうっすらと闇《やみ》から薄墨《うすずみ》色に染まっていく。  菊《きく》の邸の片隅《やしきかたすみ》で、つくったばかりの墓標に茶克抱《さこくじゅん》は花を添《そ》え、手を合わせていた。 「……じゃ、兄上、行ってきます」  小さな手荷物一つを手に邸を出た克抱は、月明かりの下に浮《う》かぶ影《かげ》にぎょっとした。 「行かれるんですか、克洵さん」  その耳慣れた声に、克泡は目を瞳《みは》った。薄闇《うすやみ》の中に顔見知りの少年の姿をみとめ、ややあって、照れたように耳の裏をかいた。 「パレてたのか」 「決めたんですね」 「……うん」  それ以上問うことをしない影月を前に、克抱はぐっと拳を握《こぶしにぎ》りしめると、顔を上げた。 「僕…は何もできないかもしれないけれど。それでも1茶一族の人間なんだ」  語尾《ごげ》が震《ふる》えた。それと呼応するかのように|膝《ひざ》も笑う。情けない。本当に、こんなときまで。 「はは、情けないね。僕は本当に何の取《と》り柄《え》もないから、不安で怖《こわ》くて」 「そう思ってらっしやるのは、あなただけです」  世辞なのか慰めなのか。影月の意図が読めずに、克抱はあやふやな笑《え》みを浮かべた。 「一つ……頼《たのl》んでいいかな」  なんでしょう、と軽くうながされて、克泡は一人のいとこの名を告げた。祖父仲障のもとから逃《のが》れ、燕青の手であるところへ匿わ《かくま》れているという、心優しい姫の名前を。 「春姫《しゅんき》をー頼む。燕青さんにお預けしていれば、心配はないのは知っているけれど。……でも、彼女は口がきけないんだ。生まれつき、声が出ない」影月はわずかに息を呑《の》んだ。 「……わかりました。お約束します。どうか、お気をつけて」 「もし僕が死んだら」 「その先は聞きません。春姫さんへの伝言もお断りします」  影月はきっぱりと言った。 「簡単に死ぬことを口にしないでください。どうか、生きてください。あなたにはそれだけの価値があります」言い切られて、克泡は苦笑《くしよ−つ》した。 「僕は、君に励《ま音ノ》まされてばかりだね」  けれど茶一族の問題は、一族の者がカタを付けなくてはならなかった。何もできないかもしれなくても、それを理由に何もしないでいることは、罪だ。 「頑張るよ。……簡単には死なない」  ぱい彼らに出会えたから、勇気をもつことができた。指先はまだ震えていたけれど、克泡は精一《せいいつ》杯笑って見せた。  自分のために、茶家のために、愛する人の未来をひらくために。 「お祖父様《じいきま》と朔拘兄上を、止めに行ってくるよ」  たった一握《ひとにぎ》りの勇気だけを手に、そう告げて。   −その夜、茶克抱は姿を消した。  轡胤胤開園恩�門日日日日=適夜半過ぎ−茶春姫《さしゅんき》はふと目を覚ました。両隣《りょうどなり》からはなかなか豪快《ごうかい》な寝息が聞こえてくる。  川の字の中心でゆっくりと身を起こすと、春姫は何かを視《み》るように中空に目をすがめた。 「……春姫殿《どの》? どうなきった。|廟《びょう》か?」  今の今まで|眠《ねむ》りの底に沈殿《ちんでん》していた翔琳と曜春が《しようりんようしゅん》むっくりと起きあがった。野生の獣《けもの》にも似て、彼らは|驚《おどろ》くほど気配に敏感《ぴんかん》だった。  春姫はすまなそうに小首を傾げると、灯《あか》りに手を伸《の》ばした。  察した翔琳がすぐさまかわりに火をつけ、曜春が筆と大きな葉っぱを持ってきた。  金と緑《えん》の薄い生活をしているので、この庵《いおり》には料紙がないのである。確かに葉っぱなら腐《くさ》るほどあるが−採りためておいたら実際腐って春姫はびっくりしたーここへきた当初は、さすがに差し出された葉の意味がわからなかった。が、声で言葉を紡《つむ》ぐことのできない春姫のために、彼らが筆談を持ちかけているのだと知って|納得《なっとく》した。今では葉っぱでの筆談も堂に入ったものだ。  春姫は葉の表にさらさらと器用に文字を書き連ねた。  こんな山奥に居を構えていても、初代頭目�茶州《さしゅう》の禿鷹《はげたか》″(つまり彼らの父親)はしっかり文字を教えてくれたので、翔琳も曜春も読み書きはちゃんとできた。 『オレもよぅ、郡《しよゝフ》に会うまではほっとんどできなかったんだけどよ、あいつがむりやり教えやがってよ。したらなかなか役立つんだよな。覚えといて損はねぇよ』1親父《おやじ》殿の言うことは正しい。現に山中での生活には必要なかろうと思っていた読み書きの知識も、春姫と出会ってこんなに役に立っている。  書き終えた葉を受けとった二人の少年は、薄暗《■つすくら》がりのなか文字に視線を落とした。長年野性的な生活をしてきた彼らは、微《かす》かな灯りさえあればたいがいのものは苦もなく見える。  沈黙《ちんもく》ののち、翔琳は勢いよく弟を振《ふ》り返った。 「曜春!」 「はい兄ちゃん!」 「バカモノお頭と《かしら》呼べ‖‥今からするべきことはわかってるな!?」 「ずばり荷造りですね!」 「そのとおりっ! 二代目義賊《ぎぞく》�茶州の禿鷹�として、我々はここに大復活宣言をする!」 「わーかっこいいですお頭! じゃあさっそくもぎたて秋の味覚つめこみ開始します!」 「いよし! 親父殿につづく『改・二代目大義賊伝説』は今ここからはじまるのだッ!!」 「はい! 忘れないようにぼくの葉《ヽ》っ《ヽ》ぱ《ヽ》日《ヽ》記《ヽ》帳《ヽ》にも書き留めておきますねっ」  途端《とたん》ににぎやかになった少年二人の様子に、春姫はうろたえた。そんなつもりではなかった  のに。旅は自分一人で行くつもりで−。  翔琳は満面の笑みで握り拳を春姫のほうへ突《つ》き出すと、ぐっと親指を立ててみせた。キラリと光る真っ白な歯が夜目にもまぶしすぎるほどさわやかである。 「旅は道連れ世は情け。出立前に恥《ま》ずかしがらずちゃんと廟はすませておくのだぞ春姫殿⊥ 「…………」春姫は撃沈《げきちん》した。       ・翁血書翁・  壊郁《ふくいく》たる香《こう》がゆっくりと漂《ただよ》い、室《へや》に澱《おり》のように積もっていく。  少し前までは|機嫌《き げん》を損《そこ》ねぬよう、仕女や家人が絶え間なく訪れていたのだが、近ごろはそれもめっきりと減った。暇を乞《いとまこ》う者も増えた。怖いのです−彼らは一様にただそう|呟《つぶや》く。  邸《やしき》の主たる室に|不躾《ぶしつけ》に、そして優雅《ゆうが》な足どりで入ってきた青年は、ちらりと四隅《よすみ》に目をやった。物陰《ものかげ》に落ちる影は日ごと漉《こ》きを増し、ゆるゆると室を−この邸を侵食《しんしょく》していくかのように見えた。気づいていないのは、醜《みにく》く老いさらばえたこの家の主《あるじ》のみ。  麗《うるわ》しい唇の片端《くちびるかたはし》だけをつりあげ、男は香をかきわけるように中央に座る老人に近づいた。 「お祖父《じい》様」 「……朔抱か《さくじゅん》。手配は終わったか」  その声も、目も、いまだ正気を保っている。そのことにだけは朔泡は素直《すなお》に感心していた。  何がこの老人の心を俗世《ぞくせ》に引き留めているのか。さして興味はないが、その執着《しゅうちゃく》の源を知りたいような気もする。  使い走りをしてやるのも、別に肉親の情からではない。祖父の企《たくら》みに荷担すれば、あの紅家《こうけ》の姫とも関《かか》われている気がして、多少の退屈《たいくつ》しのぎになる。ただそれだけだ。 「ええ。一族すべてに当主選定式の通達と、新州牧《しゅうぼく》にも招待状を」 「つくらせている指輪のほうはどうした」 「当日には届けるとのことですよ」 「遅《おそ》い。指輪を受けとったのち、細工師の首を別《は》ねよ」  茶仲障は《ちゅうしょう》魚のように仰向《あおむ》いて息を吐《は》いた。最近とみに身体《からだ》が重い。 「……正直、お前がこれほど役に立つとは思わなんだぞ。なぜ遊び呆けていた」 「草泡《そうじ紗ん》兄上がいらっしゃったではありませんか」  めまいを感じてきつく目を閉じた仲障には、朔泡の瞳に閃く嘲笑は《ひとみひらめちょうしょう》うつらない。 「草洵か……あれも|馬鹿《ばか》な死に方をしたものだ。わしへの殺意もろくろく隠《かく》せん孫だったが、それも承知でいずれ茶家を任せようと思っていたのだがな。せっかく手なずけた�殺刃賊《さつじんぞく》″も御《ぎよ》せぬ無能さには|呆《あき》れる」淡々《たんたん》とした声には、なんの感情も見られない。草抱の死の報告を受けたとき、仲障は|眉《まゆ》一つ動かさなかった。ただそうかと首肯《しゅこう》し、下手人《げしゅにん》を問いただしもしなかった。 「ばらまく金子《きんす》もそろそろ尽《つ》きますよ。おばあさまや母上が蕩尽《とうじん》なさってますから」 「金が玉環銀紗《ぎよつかんぎんさ》・金欄錦繍《きんらんきんしゅう》に変わっておるだけよ。腕環《うでわ》の一つも売り払《はら》えば金子が降ってくるわ。それもじき心配の必要もなくなろう」くつくつと噴《わら》うその双絆《そうぽう》は、底なし|沼《ぬま》のように濁《にご》って昏《くら》い。 「とうに火種はまいてある。むろん、境|噂《うわさ》にもな。鄭悠舜《ていゆうしゅん》には手こずらされたが、もう用無しだ。最後に利用して、殺す算段もつけてあるー朔泡」 「はい〜」 「お前に跡《あと》を|譲《ゆず》るには、条件がある。いずれ茶家直系の娘《むすめ》を妻に迎《むか》え、男児を産ませよ」まさか朔泡にその気がないなどとは、露《つゆ》も思っていない口ぶりだった。 「紅家の娘は正妻にするしかないが……茶家の血を濃くするにはそれしかない。わしや、お前の父のようにな。兄はかつて直系男継嗣《けいし》すべてを皆殺《みなごろ》しにしたが、幸い女はそっくり残っておる。斡持《きょうじ》ばかり高く頭から我ら傍系《ぼうけい》を馬鹿にしてかかるが、金だけ与《あた》えておけば満足するのはお前もよく知っておろう。金喰《かねく》い豚《ぶた》とでも思って飼っておけばよい」朔抱は玲確《れいろう》と喋った。−この祖父は客観的に見て、器《うつわ》はそう悪くない。  それなりに頭も回るし、冷静に物事を観察できる。家族の情など簡単に|斬《き》って捨てる冷酷《れいこく》さと、意志の強さもあわせもつ。長年あるひとつのことに取り憑《つ》かれてさえいなければ、なかなか|面白《おもしろ》い当主にでもなったろうに。  ゆるゆると香が深くなっていく。 「おじいきま。克泡が戻《こくじゅんもど》ってきたようですよ」  朔泡の|囁《ささや》きに初めて、仲障の双昨がくっと見ひらかれた。沈黙は二拍《はく》。 「……座牢《ぎろう》に閉じこめておけ。|邪魔《じゃま 》をされてはかなわぬ」  お前たちの哀《あわ》れな父と|一緒《いっしょ》の座牢にな−仲障はそう冷たく吐き捨てた。  初めて朔抱は是《ぜ》と肯《うなず》いた。ようやく出てきた興趣《きょうしゅ》をそそられる意見に笑う。  四隅《よすみ》の闇《やみ》がじんわり触手《しょくしゅ》を伸ばすのを横目に、朔抱はゆるやかに波打つ髪《かみ》をなびかせ、足どりも優雅《ゆうが》に室を出て行った。  仲障は息を吐き、甘い香《かお》りを吸いこんで、再び目を閉じた。背もたれに預けた背中が、いや身体全体が根でも生えてしまったかのように重い。  朔泡が退室前に残した笑い声が、木霊《こだま》となってそこかしこに残っている気がした。  いや、これは——。 「また……喋っておるのか、鴛洵《えんじゅん》兄上?」  だがもう|舞台《ぶ たい》は整った。仲障はぎゅっと披深《しわぶか》い手を|握《にぎ》りしめる。 「あなたと同じことをしてみせようよ、我《わ》が兄上。そしてわしはあなたを超《こ》える−」  闇の色が濃くなったことに、ただ仲障だけが気づかなかった。       e前歯.翁患 「克洵さんが−!?」  金華《きんか》出立直前、秀麗《しゅうれい》は克陶の件を告げられて心底|驚《おどろ》いた。 「茶家のことだからな、姫さんも知っとくべきだろ。……なんでかは、わかるよな〜」  燕青《えんせい》にそういわれ、秀麗は口をつぐんだ。ええ、と小さく呟く。 「あいつは、自分ができることをLに行ったんだ。茶家の人間としてな」 「……でも、一人でなんて……」 「姫さんが知らないことを一つ教えてやろうか。鴛拘じーちゃんが亡《な》くなって、茶家がゴタゴタしはじめたとき、あいつはまっさきに一族会議にのりこんで、茶家の全権を英姫《えいき》ばーちゃんに預けるべきだって意見したんだ」秀麗と影月《えいげつ》は初めて聞く話に目を丸くした。……あの、克洵さんが?  「実際おとなしい男だから、克《こく》ほ一族の誰《だれ》からも馬鹿にされてた。だからそのときも鼻で噴われて終わりだった。それでもあいつは何度も何度も一族を説得しょうとした。結局誰にも相手にされなくて、でも何かしたくて、牢にぶちこまれてた俺んとこまできた」燕青は苦笑いした。燕青が焚《た》きつけるはぅな言動をとったのも、それができるのは克洵だけだと思ったからだ。悩《なや》んでも、二の足を踏《J》んでも、弱くて情けなくても。  茶一族のなかでたった一人−彼だけが。 「確かに、目に見える取《と》り柄《え》は何一つないかもしんねーけど、あいつは、いちばん大事なもんをちゃんともってる。どんな才だってその前には全部霞《かす》んじまう、とびっきりのやつをな」  |優《やさ》しすぎるほどに優しい青年。はたから見れば気弱に見えるほどに。  けれど——たった一人ですべてを止めるために足を踏みだした彼の、どこが気弱だろう。  取り柄がないなんて思ってるのは、本人と茶一族だけだ。 「茶家の問題は、茶家で解決するべきだ。外部が余計な世話焼いてむりやり解決させたって、しこりしか残らねぇ。それをわかってるからこそ、あいつは一人で行ったんだ。俺たちが口出しすることはできねtL、筋違《すじちが》いだ」うつむいた秀麗の背を、静蘭《せいらん》は優しく叩《たた》いた。 「彼には彼の、お嬢様《l。レよーフさま》たちにはお嬢様たちにしかできないことがあります。道が交わるときは必ずきます。そのときがきたら、すべてを尽くして彼を助けたらいいんです」 「……うん、そうよね」夜が明けるか明けないかの頃合《ころあ》いだったが、由官吏《ゆかんり》と柴太守《たいしゅ》が見送りに来てくれていた。  ちなみに柴太守は境瑳行きの面子《めんつ》を見てとんでもないと飛びあがった。 「連れていかれるのはうちの愚息《ぐそく》一人きりですと!?そそそれは光栄ですが、はっきりいって彰は《しょう》護衛の役になぞたちませんぞ!?金子には汚《きたな》いですし、いざというときは楯《たて》になり申すどころか、まっさきに戦陣《せんじん》を離《はな》れかねませぬ!」これに対して柴彰は反論どころかにこやかに肯いたものだ。 「さすが父上殿《どの》。よく件《せがれ》をご存じですねぇ。まさに商人とはかくあるべきもの」  このころには柴親子の喧嘩《けんか》も見慣れていたので、秀麗は苦笑《くしょう》しつつ由官吏にそっと噴いた。 「……その、香鈴《こうりん》に、謝っておいて頂けませんか。|黙《だま》って行ってごめんなさいって」  由官吏は|穏《おだ》やかに|微笑《ほほえ》んだ。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。この旅の危険性も、同行できない理由もちゃんとわかっていると思います。あとのことはお任せ下さい。……お気をつけて、どうか」  心から案じてくれていることがわかる優しい声音に、秀麗は嬉《うれ》しくなった。 「はい。行ってきます」  そうして、官位でいえば六部の尚書《しようしょ》にも及《およ》ぼうかという大官・州牧様のご一行は、またしても 「こんな州牧以下略」という極《ごく》少人数−秀寮、影月、静蘭、燕青、柴彰のたった五人一で、州都入りを目指すべく境壇に向かったのだった。   −そして、出立からわずか三日後。秀麗たちは、境埴目前まできていた。  通常五日の|距離《きょり 》を、駆《か》けに駆けて三日まで縮めたのである。馬にとってはとんだ災難だったろうが、人間にもかなりの強行軍だった。 (香鈴を金華の柴太守と由官吏に預けてきたのほほんっと正解だったわ……)  揺《ゆ》れるというより跳l《ま》ねるという形容が正しい馬車の中で何度転がったことか。人より馬の休息と速度を優先した結果、まとまった|睡眠《すいみん》どころか馬車を降りることさえ|滅多《めった 》になく、全身痺《とう》痛《つう》と強《こわ》ばり具合ときたら、出来の悪いカラクリ塊偏《にんぎょう》にでもなった気分だ。  たった三日だったが、秀麗と影月のやつれぶりほかなりのものであった。 「うーん、見事に封鎖《ふうさ》されてますねー。城門前には、新州牧《しゅ−つぼく》の着任式にご臨席なさるという各部太守の御料軒《ごりようぐるま》も天幕も、いまのところひとつも見えませんし」この数ヶ月ですでに秀麗も影月も州牧ながら哀《かな》しくも見事な野宿の達人になっていた。  影月は野生の薬草を摘《つ》んで打ち身に効く塗《ぬ》り薬をつくり、秀麗がてきぱきと夕駒《ゆうげ》の準備に励《まず》んでいると、簡単な偵察《ていさつ》を終えてきた柴彰がいつものごとく諷々《ひようひよう》と報告した。 「……赴任《ふにん》期限の一日前に、着任式を設定してくれちゃうなんて、鄭補佐《ほさ》って実はかなり大胆《だいたん》な人よね……」境埴封鎖と同時に、着任式の正式な日取りも公開された。今日から数えて十九日後−赴任期限切れの一日前である。ちなみに封鎖解除の日は十八日後。つまり列席する各地の主要太守の皆々様《みなみなさま》は、事前にやってきても一日前まで城郭《じょうかく》外で強制自炊《じすい》天幕生活を|余儀《よぎ》なくされるというわけだ。ありえない。 「でも、ギリギリで良かったですよわー。秀麗さんの�膏″《つぼみ》をとりかえすのに、めいっぱい時間とれますLt」痛いところをつかれ、秀麗はうっと胸をおさえた。 「……迷惑《めいわく》かけて本当にごめんね影月くん……」 「そんなことないですよt。どっちにしろ、ここまで色々やって下さってることを思えば、茶家のかたがたはどうあっても僕たちと|接触《せっしょく》してくるに決まってますし。立場が違っていれば、�菅″をとられたのは僕のほうだったかもしれないんですから」  今夜の夕飯を仕留めてちょうど戻ってきた燕青と静蘭も、そろって肯いた。 「そうそ。かわいくて日えつけられちゃったのは姫《ひめ》さんのせいじやないって」 「どっちにしろ、影月君のいうとおり避《さ》けては通れない相手ですからね」 「茶家だけに避けられん、てな! おっ、うまいじゃん俺」  Ltんと冷えた沈黙《ちんもく》が落ちた。心優しい影月でさえさすがにかばうことはできなかった。  ややあって静蘭が冷ややかに切って捨てた。 「……お前は酒落《しやれ》まで下から二番目だな」 「なっ聞き捨てならんぞ! あれはなt、俺の|素晴《すば》らしい詩才を妬《ねた》んだ採点係の|陰謀《いんぼう》で」 「まあどっちでもいいですが」  何げにいちばんひどいことを柴彰が言う。 「まずは、あの封鎖されてる門を越《−J》えなきゃ話になりませんね」 「その前に」               す  きらり、と秀麗は燕青が手にしている野ウサギに目を光らせた。 「腹ごしらえしましょ」  誰も異議は唱えなかった。 「……藍龍蓮《らんりゆうれん》氏がいてくれれば話は簡単だったんですけどねぇ」  腹ごしらえののち、まったりとお茶を頂きながら柴彰は話を再開した。 「藍家直紋《じきもん》さえあれば、この紋所が《もんどころ》目に人らぬかtの一発で全員素通《すどお》りだったんですが……なぜ突然《とつぜん》いなくなってしまったんでしょうね」秀麗のもつ特別製木簡の威力《いりょく》は全商連内でしか通じず、茶州では茶家直紋�孔雀練乱″《くじやくりトやつらん》のほうが|影響《えいきょう》力があるらしく、貴《こう》家直紋か鴛鳶彩花《えんおーフさいか》″では封鎖令を押し切っての開門までは望めない。これが紅藍両家の直紋ならばなんの問題もなく一発開門なのだが−。  しかし|奇天烈《き て れつ》藍龍蓮は�殺刃賊《巷つじんぞく》″事件のあと、しばらくして金華から姿を消してしまった。  なぜすでに金華にいないと断言できるかというと、龍蓮がきてからというもの毎日ひっきりなしに金華郡府に届いていた 「怪音《かいおん》」に関する苦情報告が、ある日を境にばたりとやんだからである。これはあの 「下手《へた》の横好きというにはあまりに破壊《はかい》力抜群《ぼつぐん》の笛」を吹《ふ》く者がいなくなった|証拠《しょうこ》だった。ちなみに一件だけ、 「手に負えなくて困っていたうちの暴れ鶏《どり》が、あの笛のおかげでぴたりとおとなしくなりました。どこぞの鶏使い殿《どの》にぜひお礼を申し上げたい次第《しだい》」と丁寧《ていねい》な礼状も届いていたが、これはかの笛が役に立ったきわめて稀《まれ》な例といえる。 「あれほどお二人のそばにくっついていらっしゃったからには、当然境確まで|一緒《いっしょ》についてきてくだきると踏んでいたんですけれどねぇ」秀麗はぷいとそっぽを向き、影月もうろうろと視線を泳がせた。 「いまさら龍蓮を当てにしても仕方ないわ。もともとあの歩く怪音男は官吏《かんり》でもなんでもないし、本当ならいないはずの男なのよ。そりゃいれば遠慮《えんりょ》なく利用させてもらったけど、ふらふらどこぞへ旅立っちゃった今、そんなことを言っても無意味だわ。そうでしょう?」 「ぼ、僕もそう思いますt。いらっしゃらないんですからしょうがありませんよね?」|妙《みょう》にムキになって言い募《つの》る若い州牧二人に、視線が集中する。しかし年長組はこれ以上つっこまなかった。 「……で、開門の件ですけど、どうします〜」  さらりと話題を流して、そう言ったのは柴彰だった。お茶をすすりながらの実に|緊張感《きんちょうかん》のない問いは、協力者ではあるが当事者ではないという彼の立場もあるのだろうが、それ以上に彼の性格ゆえであろう。父親とは正反対である。 「どうするって……正々堂々真っ正面から入ればいいじやないの」 「城門守備兵まで茶家の私兵にすりかわっていると先ほど報告したような気がするんですが」 「それって違法《いはう》でしょう。茶家が正規の門番殴《なぐ》って代わったなら、静蘭の権限でとっつかまえて、そこらに転がして堂々と門から入るのになんにも支障はないし、もし鄭補佐が封鎖令のように正式な要請《ようせい》を茶家にしていたとしたら、理由なしに州牧の大都|拒否《きょひ 》はできないはずだわ。今回はちゃんと印・佩玉《はいぎよく》・任命書とそろってるんだから。その上で追い払《はら》うならお役目まっとうしていないってことで、以下同文。……違《ちが》う? 何か問題あるの〜」 「なるほど。ふふ……いいえ」柴彰は眼鏡《めがね》の奥で面白《おもしろ》そうに瞳《ひとみ》をきらめかせた。 「そうですよね。静蘭さんたちなら|充分《じゅうぶん》手加減できますLt」 「私の�菅″に関しては、どうせ境噂に入ったら向こうからなんかくるでしょうしね」 「あれ、じゃ、あとは寝《ね》るだけですね」 「そうね影月くん。ご飯と睡眠はいつでも必須《ひつす》よね。火の不始末だけは気をつけてと」  てきぱきと早速《さつそく》寝る支度《したく》を始めた州牧二人に、静蘭と燕青《えんせい》は思わず笑ってしまった。 「なあ彰、すげーいいだろ? 俺らの上司。もう最強」  柴彰は眼鏡を外すと、|珍《めずら》しく心から|溜息《ためいき》をついた。 「……確かに、前州牧に優《まさ》るとも劣《おと》らない州牧になりそうですね」       ・器・翁・  翌朝−秀麗一行がとった方法は殴って転がすほうであった。 「検印検印〜」  何度も開塞《せきしょ》破りをしている燕青は、実に手慣れた様子で勝手に記帳し、印を捺《お》す。  秀麗はしみじみと呆れた。 「……ちょっと慣れすぎてるわよ燕青……」 「やっぱり人生何ごとも経験しとくとあとでお役立ちってこったな!」 「それでこないだ牢《ろう》に放《ほう》りこまれたんだろうがこの馬鹿」 「あーははは。なな彰、お前って馬乗れたっけ?」 「まあ、それなりには」 「お姉様のお邸《やしき》に行っていい? てか行くとこねーから行くからな?」  珍しく柴彰は渋《しぶ》い顔をした。 「……姉はずっと境埴全商連に詰《つ》めていますからまあ迷惑はかからないと思いますが……もし家屋が大破するようなことがあったらツケさせていただきますからね」 「う、ま、まあ今回ぽっかりはしょtがねぇ。わかったよ。んじゃ」燕青の目配せを受けて、静蘭は剣《けん》を一閃《いつせん》させた。馬車と四頭馬をつなぐ紐《ひも》を切り飛ばす。そして燕青は影月を、静蘭は秀麗を抱《だ》き上げると、自由になった馬に押し上げた。 「え!?」 「わぁっ!?」  急に目線が高くなったかと思うと、身体《からだ》が上下に激しく揺《ゆ》れた。秀麗も影月も何が何だかわからず、いきなり叩《たた》きつけるように頬《はお》を打ってきた風に思わず目を閉じた。  いちばん鈍足《どんそく》の一頭だけを置き去りに、三頭が全力疾走《しつそう》を開始する。三頭とも見事な駿馬《しゅんめ》と化し、土壌を蹴立《つちぼこりけた》てて境埴内を風のように疾駆《しっく》する。  こういうときのために軍馬をつないでいたのだが、これは騎手《きしゅ》の腕《うで》も大きい。  燕青と静蘭は、いくら 「お荷物」がないとはいえ裸馬《はだかうま》で自分たちにぴたりとついてくる柴彰の腕に内心舌を巻いた。さすが柴太守、|息子《むすこ 》の躾《しつけ》は厳しく行ってきたらしい。 (こーれで商人になられちや、柴のじっちゃんも泣くに泣けわーわな……)  ことあるごとに喧嘩《けんか》をするのも仕方ないかもしれない。  対する秀麗たちは、突然の事態に目を白黒させた。 「ちょ、ちょっとなんでいきなり馬!?」 「さすがに境埴城下では燕青の顔はある程度知られているのでしょうからね。トコトコ馬車で進んだら、お嬢様たちの正体もすぐにばれてしまいます。まあたいして役には立たないと思いますが、茶家対策です。ということで、少し黙ってくださいね。飛ばしますから、しゃべると                 ヽ一舌を噛《ふ�》みますよ」                     ぼち静蘭に言われるまでもなく、加速した馬上ではしゃべるどころではなかった。頭がすり鉢にされてすりこぎでかきまわされているような感覚に、目が回った。それきり、もはやどこをどう走っているのかもまるでわからなくなった。                                                          ゝ  ヽ一  気づけば静蘭に抱《カカ》えられ、馬から降ろされていた。まとも堅且つことも難しく、ふらふらと酔《よ》っぱらったように足もとがおぼつかなかった。見れば影月も同じように揺れている。 「つらかったでしょう。鞍《くら》もない上に、ちょっと本気で駆《か》けましたから……」 「あ、あれでちょっと!?くー……お尻《しり》がすごくひりひりする……」  馬車での強行軍もあり、身体のあちこちが痛んでどこが一番痛いのかもよくわからない。 「で、こ、ここって、その……?」 「ええ。柴彰殿《どの》の姉君、凍《りん》様のお邸だそうですよ」  目をこすり、霞《かすみ》のかかったような視界をはっきりさせる。飛びこんできたのは、趣《おもむき》ある小ぶりの庭院《にわ》だった。大貴族の大庭をそのまま小さくしたような印象だったが、よくよく見ればどれもありふれた草木や飾《かぎ》り造りを少し酒落《しやれ》た感じに手直ししただけで、元手はほとんどかかっていない。目を移した先にある邸も、庭院と同じくこぢんまりとしており、堅牢《けんろう》で質素ながら要所にさりげなく精緻《せいち》な細工が見られ、邸の主の趣味《あるじしゅみ》の良さが垣間見《かいまみ》られた。 「……うちの父様に見せてやりたいわ」  広すぎて秀麗一人では手が回らず、結果的に一部を除いて惨憤《さんたん》たる有様の邵可邸《しようかてい》とは実に対照的だった。 「少し壌《ほこり》っぽいかもしれませんが、どうぞ。ああ、馬は池の近くの木にでも適当につないでおいてください。勝手に池の水を飲んでそこらの草を食べますから」 「うわー超大雑把《ちょうおおぎつぼ》−」 「よりによってあなたにいわれたくないですねぇ浪補佐《ろ事つほさ》。時間の節約といってください」静蘭や燕青と違《ちが》って柴彰の額からは滝《たき》のように|汗《あせ》が流れおち、息も上がっていた。珍しく乱暴に袖《そで》で頬をぬぐいながら、柴彰は諷爽《さつそう》と|踵《きびす》を返した。 「さあ、どうぞ。多分姉からの、分厚い置き手紙が待っていることと思いますよ」  柴彰の予言通り、それは見るからにずっしりと重そうな封書《ふうしょ》だった。  しかも『二人の新州牧様《しゅうぼくさま》へ』との表書き。秀麗と影月はそろりと目を見交わした。 「……えーと、どうして私たちがここにくるってわかったんですか……?」 「商人に必須の能力は正確に先を読むことですよ、紅州牧。浪補佐が言ってたでしょう。『ここにしか行くところがない』と」視線で促《うなが》され、二人はその封書を開いた。  凡帳面《きちょうめん》さがうかがえるきっぱりとした文字だった。無駄《むだ》なく要点だけを見事にまとめた文章は怜例沈着《れいりちんちゃく》さがうかがえる。それでいて女性らしい細やかさものぞき、この書翰《しよかん》だけでも好感のもてる人物と匂わせるに充分だった。  しかし、書翰を繰《く》るにつれ、秀麗と影月の顔が徐々《川レよ川レよ》に険しくなっていった。  それは、現在茶家が茶州各地で何をしているかの事細かな報告と、境埴全商連はすでに茶家の手が回っており、境璃全商連は最低限の手助けしかできないこと、そしてなんと茶家からの『招待状』が同封されていた。 「……二人とも、驚かないのね?」  目を通してもたいした変化を見せない静蘭と燕青に、秀靂のほうが驚いた。 「んt、まあ、こんくらいはな。やるだろうと思ってたし」 「予想の範囲《はんい》内ですね。しかし燕青、茶州各地の報がここまで|詳細《しょうさい》に書かれているということは、全商連と悠舜殿との間で何か密約でも?」 「ああ、春に王都に出向く前にちょっとな。新州牧たちが、赴任《ふにん》に当たって茶州全商連副支部長である柴彰及び金華全商連をオトすことができたら、茶州全商連そろって新州府につき、可能な限り悠舜と繋《ゆうしゅんつな》ぎをとって逐次《ちくじ》情報提供及びその援護《えんご》を行ううてな」秀麗と影月はぎょっとした。−そんな重要なことを!  「な、ななななんで言ってくれなかったの!?」 「そ、そうですよ! そしたらこう、もう少しお会いするとき、なんとかイゲソとか」 「言ったろ、新州牧たちがオトしたらって。姫《ひめ》さんたちが危急時にどんな風に考えて、どんな風に行動するのか−ありのままの姫さんたちを見てもらっての判断が条件だったんだ。俺が余計なこというのは許されてなかったんだよ。でもちやーんと柴彰オトしたろ〜」柴彰は眼鏡《めがね》を外すと、硝子《がらす》をぬぐいつつちらりと燕青を横目で見た。け拝が缶 「何せ十年も顔付き合わせてきた前州牧がどうしようもない男だったので、健気に頑張る小さな新州牧たちの新鮮《しんせん》さとかわいらしさにうっかりトキメキましてね」ただし、と柴彰は笑顔《えがお》はそのままながら、口調に真剣味《しんけんみ》をとかしこんだ。 「ギリギリ及第《きゅうだい》点です。二人ともにそれぞれ|精一杯《せいいっぱい》頑張っていた点は認めますが、事前の詰めが甘すぎる。茶州が危険と知りつつも、燕青殿と静蘭殿がいるからとりあえず全員|一緒《いっしょ》に金華及び境噂までたどりつけると思っていた。だから離散《りきん》した際の対策をまるで考えておらず、互《たが》いの連絡《れんらく》方法も対処法もなく、結局あのときは個々の能力と時の運にかなり頼《たよ》ることになってしまった。−違いますか?」秀麗と影月は言葉もなく、そろって肩《かた》を落として肯《うなず》いた。 「本来、金華全商連に紅州牧がお一人でいらしたことからして無策が知れるというものです。あの時点で互いの状況と金華の状況を完全に把握《はあく》し、連携《れんけい》して動くべきでした。その策は州牧であるあなたがたが事前に立てなくてはならなかった。いいですか、『多分|大丈夫《だいじょうぶ》』などありえません。浪前州牧と鄭補佐《ほさ》はこう見えても、あなたがたを迎《むか》え入れるためにあらゆる事態を想定し、詰めに詰めてきています。本来、それが州牧のあるべき姿なんですよ」すっかりうなだれてしまった二人に、ようやく柴彰は言葉を和《やわ》らげた。 「……それでも私があのとき茶州全商連を代表して協力をお約束したのは、あまりにも無策ななかで、あなたがたはいつも最善の策を選ぼうとしていたからです。もとより初任・無経験の州牧に最初から|完璧《かんぺき》など望んでいません。けれどね、完璧ではなくても、いつだって完璧を目指して最善の策をさぐる州牧であって欲《ほ》しい。その努力をする州牧であって欲しい。それが、私の見極《みきわ》めの最低限の線でした。そしてそれだけはちゃんと越えていたから、肯いたんです」それでもしおれた青菜のような二人に、燕青が困ったように笑った。 「そー落ち込むなよ二人とも。よく頑張ったと思うぜ? だいたい彰の先物買いの日の確かさは全商連でも指折りなんだぞ。これから頑張ればかなりイイ線いくってことだよ」柴彰はにっこりと裏のありそうな笑顔を|浮《う》かべてみせた。 「そのとおり。私の華々《はなぼな》しい先物買いの経歴に痕《きず》を付けないでくださいね。さあ二人ともーということで復習です。これからどうします?」 「……うっわー|容赦《ようしゃ》ねーな……」 「しっかりモトをとらせていただかなくては。あなたも荘《し》武官も鄭補佐も甘そうですから、私くらいのが一人いてちょうどいいんですよ」秀貫と影月は唇をかみしめると、ぐっと顔を上げなおした。  かちゃり、と眼鏡をかけなおした柴彰から表情を読むのはとても難しい。だから反射した眼鏡の奥で、その瞳が《ひとみ》微笑むように細められたことも二人は気づかなかった。 「影月くん……私ここで州牧印を使うべきだと思うんだけど」 「ええ、僕もそう思います。全商連も最低限の手助けはしてくださるんですよね?」 「可能なことならば」  顔を見合わせると、年少州牧たちは肯いた。すぐさま影月が手近の筆をとって、料紙に何ごとか書きつけ始める。秀麗はまっすぐに柴彰を見上げた。 「それでは返書を、全商連茶州支部長柴凄殿《ごの》に届けてください。全商連茶州全区に所属する全護衛兵のすみやかなる官軍協力を要請《ようせい》します。現在各地で勃発《ぼつぼつ》している|騒《さわ》ぎの収拾及び新州牧着任式にご臨席くださる各太守たちの道中警護にあたってくださることを、茶州州牧杜《と》影月及び紅秀麗の名をもってお願い申し上げます。その采配《さいはい》は柴凍殿に一任し、ご協力に際しての諸経費は無論公費とし、すべて州府が負担いたします。ただし、謝礼はありません。礼状ならあとで州牧二人で真心こめて書きますが、金《ヽ》品《ヽ》で《ヽ》良《ヽ》心《ヽ》を《ヽ》買《ヽ》う《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》は《ヽ》あ《ヽ》り《ヽ》ま《ヽ》せ《ヽ》ん《ヽ》。これは命令ではありません。受諾《じゆだく》か否《いな》かはそちらで話し合いのもと、ご判断下さい。ただしご返答は可及的《かきゅうてき》速《すみ》やかにお願い致《いた》します−と」  一息に言い切ると、.秀麗はちょっと心許《こころもと》なさそうに補佐と専属武官を見た。  燕青は真顔で顎《あご》に手をやった。 「んーちょっと足りないな」 「え? な、何が!?どこがどんなふうにダメ!?」  影月がまさに秀麗の言葉と同じ内容の書状をしたためて自署と州牧印を押し終えたそのあとに、燕青と静蘭はそれぞれ筆を借りると名を連ねた。 「茶州州努《しゅういん》浪燕青及び勅宣《ちよくせん》武官荘静蘭……つと。これが足りねうて」  燕青はまるで鼻歌でも歌いそうな上機嫌《じょうきげん》だった。 「これであとは姫さんの署名があればできあがりだな」 「じゃ、じゃあいいの?」  静蘭は首肯《しゅこう》した。 「どう考えても茶州軍だけじゃ足りませんからね。全商連の精兵たちなら腕《うで》も立ち、統率《とうそつ》もしっかりしています。金華での前例もできたので動きやすいでしょう」 「いやーしかし全商連に堂々と無報酬《むほうしゅう》でご奉仕《はうし》してくださいなんて、怖《こわ》すぎて誰《だれ》もソなこといえねーよ。さてビーよ彰〜」 「金品で良心を買うつもりはない……ですか。つまり、茶州に住む者として、自分の庭掃除《そ1つ川レ》は自分でするのが当然だから、公共奉仕の|一環《いっかん》として協力しろと」いつもどこか適当そうな柴彰だが、今回ばかりは心から両手を上げたような声だった。 「お見事です。至急姉に書状を届け、幹部達議をひらいて茶州全商連としての決議をとりきめましょう。否の場合は一両日中に正式な書状を届けますが、是《ぜ》の場合は各区への通達及び振《ふ》り分けを最優先し、こちらへのご連絡は略させていただきます」秀麗は自らの名を最後に記し、墨《すみ》が乾《かわ》くのを待って丁寧《ていねい》に折りたたむと柴彰に差しだした。 「よろしくお願いします」 「うけたまわりました。で、もう一つの招き状は開封《かいふう》しないんですか? 姉から回ってきたものなので、書状自体に何か仕掛《しか》け等を心配することはありませんよ」うっと二人の州牧は《しゅうぼく》息を詰《つ》めた。そういう問題ではない。 「……なーんか、呪《のろ》いの招待状って感じ……さわっただけで運が下がりそうっていうか」 「ヤな感じですよねー……でも開けなきゃなりませんよねー……」  境壇に入ったら必ず全商連と|接触《せっしょく》すると見越《みこ》して預けられたのは明白だ。完全になめられている。実際その通りなので情けないというかなんというか。  秀麗はなんだか腹が立ってきた。思えば侍女《l。レ国レよ》仕事のひと月も、いつだってあの若様にはなんだかんだと振り回されてきたのだ。 (今度は何だっつtのよっっっ)  挑戦状を叩《ちょうせんじようたた》きつけられたごとく秀貫の目はめらめらと燃えた。勢いよく 「呪いの招待状」をつかむと、ザヅと卓上《たくじょう》にひらいた。その実に気合いの入った男らしい開け方に、男性陣《じん》は思わずそろって拍手《はくしゅ》を送ったあと、一緒にのぞきこんだ。  1——かなり長い沈黙《ちんもく》が落ちた。ようやく秀麗が口をひらく。 「………すんごい罠《わな》っぽいわね…………ちょっと本っ当になめられてんじゃないの」 「うーん、要約すると『さー来いヤー!』って感じ?」  おどけた燕青を静蘭がたしなめる。 「むしろ超訳だ《ちようやく》それは。……それにしても日時がいやらしすぎて嫌《いや》になりますね」 「い、一応これも正々堂々っていうんでしょうか……?」  柴彰は眼鏡の鼻を押し上げると、淡々《たんたん》と要点をかいつまんで復唱した。 「ええと、招待の日時は十七日後。『一族うち揃《そろ》って厳正なる当主選定をとりおこない、選出された一族の者をもって即日《そくじつ》茶家当主就任の儀《ぎ》を執《と》り行う由《よし》。ついては晴れがましきその儀にぜひとも新州牧にご臨席及《およ》び承認を請《こ》い願いたく、ご来訪を心よりお待ち申し上げる』云々《うんぬん》」秀麗はぶるぶると震《ふる》えた。あまりにも|馬鹿《ばか》にされすぎている。 「ふっざけんじゃないわよ、着任式の前日ですってぇえええ!?」 「では断りますか?」 「行くに決まってんじゃないの! 持ってかれた�菅″《つぼみ》取り返さないとだし、克洵さんの件もあるし、……だから腹立つんじゃないの1つつ!! 」ごもっとも、と柴彰をのぞく全員が思った。断れないとわかっていて、こんな手紙をよこす心根が小面憎《こづらにく》い。秀麗の怒《いか》りももっともだった。 「……しかし先手打ちまくりだよなぁ仲障じーちゃん。ブツーソと血管切れなきゃいーけど」  柴彰が返書をもって出ていくそのあとを、静蘭が何気なさを装《よそお》って追った。  ちょうど庭院に出るところで、柴彰もそれを待っていたように仔《たたず》んでいた。 「柴彰殿《どの》。頼《たの》んでおいたものは」   ふぼこ         こ打−これがお約束のもの圧注 「全商連に手配できないものはございません。まず文箱を、次いで手のひらにのるほどの小瓶を受けとると、静蘭は慎重に風上に立ってから、ほんの少しだけ蓋《ふた》をあけた。そして微《かす》かに煽《あお》いで匂いを喚《か》ぐと、ゆっくり肯く《うなず》。 「……確かに。ご苦労様でした」 「あなたは……おそろしく毒に詳《くわ》しいのですね。その知識、医者を志《こころぎ》していらしたという杜州牧を遥《はる》かにしのぐ。俗世《ぞくせ》の裏側の、そのまた底に流れるこんなものまでご存じとは|驚《おどろ》きました。失礼ながら1?」  正体をさぐるような柴彰の視線に、静蘭は口の端ー《ま》だけで笑った。 「あなたが知る必要のないことです。私も知りたくて知ったわけではありませんし」  生と死の狭間《はぎま》で生きねばならなかった遥かな昔。骨まで喰《く》らい尽《つ》くそうとする異母兄弟たちの憎悪《ぞうお》と死を紙一重《ひとえ》でかわしっづけていたら、自然と身についてしまっただけの話だ。 「……それを、独断で使うおつもりですか」 「商人にしては出過ぎた物言いですね。それとも、官吏の家系の血がうずくのですか?」  やんわりとした言葉だったが、その林《とげ》は隠《かく》しょうもない。けれど柴彰は動じなかった。 「あなたもー一武官に過ぎないでしょう」 「少し、違《ちが》いますね。私は主上から�干将″《かんしよ.う》を下賜《かし》された武官です。あらゆる危険から州牧たちをお守りする義務があります。それに−燕青はあなたの言うとおり甘いところがある」|溜息《ためいき》をついた一瞬に閃《いつしゅんlひらめ》いた表情は、外見よりも遥かに老成した陰《かげ》りがあった。明らかに柴彰よりも若いはずなのに、嵐《あらし》のなかをもう五十年もさまよってきたような貌《かお》をしていた。 「あれは日の下を行く男です。どんなに闇《やみ》が触手を伸《しょくしゅの》ばしてきてもことごとく退け、闇夜《やみよ》にうなされることもない。朔泡のような男を相手にするには不向きです」 「あなたは違うと〜」 「私は、燕青とは正反対の人間ですよ。ああいった類の扱《たぐいあつか》いは、誰よりもよく心得ている。殺すこともそのまま生かすこともできぬ相手を、どうすべきかーなどはね」自分で言っていて笑いたくなった。そう、誰よりよく知っている。まさにかつての自分こそがその立場にいたのだから。 「……あなたは、王ですね」  ちらりと向けられた昏《くら》い瞳《ひとみ》から逃《のが》れるように、柴彰は眼鏡《めがね》を軽く押し上げた。 「支配者の道を歩んできたような言い方をなさる。光も闇も、あなたにとっては希望でも絶望でもなくただ目的を達するための手段でしかないとでも−」静蘭の返事を待つ前に、会話を打ち切るように柴彰は一歩身をひいた。 「つい、おしゃべりが過ぎました。さて、では私はもう行きます。引きつづき、頼まれている情報と薬に関しては入手次第《しだい》送らせていただきます」 「ええ。お願いします」静蘭はいつもの|穏《おだ》やかな|笑顔《え C90がお》かべた。先ほどの会話の直後で、こんな風に何ごともなく微笑を浮かべられるとは、言ったいどれほどの鮮断をくぐってきたのか。内心射れつつもそれについてはもう指摘《してき》せず、柴彰はその場を辞去した。  残された静蘭は、しばし手にした小瓶を弄《もてあそ》んだ。  たとえば紅葉《もみじ》のような手。たとえば名前を呼ぶ声。たとえば|向日葵《ひまわり》のような笑顔。  数えることが簡単なほど、静蘭にとって大切なものはわずかしかない。  自分のなかに闇はあれど、|輝《かがや》くものなど何一つない。……だから、彼らがいなくては、光を失ってしまう。 「……光も闇も、利用できるものならすべて利用しますよ」  守るべきものを、守るためなら。  ポッリと|呟《つぶや》いた声は、少しだけ揺《ゆ》れて、風にさらわれるように消えていった。       ・魯・歯・ 「お祖父様《じいさま》、もうやめてください。今ならまだ……まだ引き返せます!」  仲障は冷ややかに、懇願《こんがん》する克泡を見下ろした。  何もかも凡庸《ぼんよう》な末の孫。何をやらせても並以上にいかぬ。なのにいつもこうして理想ばかり追いかける。愚《おろ》かにも鴛抱《あに》の後ろ姿ばかりを見て現実を見ぬ。   −それだけの能力もない者が、よくも口だけはこうもまわるものだ。 「今からでも遅《おそ》くありません。大伯母様《おおおぼさま》に茶家の全権を預けるべきです。草洵兄上も亡《な》くなってしまったのに、これ以上何を求めるのですか!?もうやめてください。茶州の地も、民《たみ》の命も茶家のものではありません。いいようにできるものなんて何一つないんです」 「ご立派だな克洵……愚かな末孫よ。それでお前は何をした? 言うだけ言うて、その昔もとらぬ。英姫《えいき》に任せるだと? |所詮《しょせん》お前はすべて人任せか。そんなことなら幼児にもできるわ」打たれたように|凍《こお》りついた孫を、仲障は噸笑《ちょうしょう》した。 「まあ、自らにその能力がないと自覚しているところは認めてやってもよいが」 「……確かにそうです。僕はいつだって他《ほか》の誰《だれ》かに頼《たよ》ろうとしてきました。それでも……」  克抱はぐっと顔を上げた。ここでひくわけにはいかなかった。論点を見失うわけにはいかなかった。自己|嫌悪《けんお 》で落ち込んでいる|暇《ひま》などもはやない。  仲障の言葉がまぎれもない真実でも、なんの権力も持たない自分ができることは、ただ言葉を尽くして説得することだけだった。 「それは、茶家が今まで犯《おか》してきた罪を正当化する理由にはなりません。僕たちは償わ《つぐな》なくてはならないんです。それも今。速《すみ》やかに英姫大伯母様に茶家を預け、新州牧にすべてをお預けし、その裁可を仰ぐべきです。ーもちろん僕も直系の一人としてその責任を果たします。直系一族の中でもっとも重い刑《けい》を受ける|覚悟《かくご 》もあります。そしてもし僕の首でお祖父様や朔洵兄上の罪があがなえるなら、真っ先に差し出します」初めて仲障の顔色が変わった。彼はくっと目を見ひらくと大喝《だいかつ》した。 「−この、彩《さい》七家たる誇《はこ》りももたぬ恥《はじ》さらしが!!」 「誠《せい》も義も節も度も忘れ欲に走り汚濁《おだく》にまみれていることさえ気づかないほうが恥です!! 」  反射的に怒鳴《どな》り返してから、克洵自身がぎょっとしてしまった。こんな大声を出したのは生まれて初めてだった。  そして一度激すると不思議に心がストンと落ち着いた。 「……恥を、恥と思わなくなったらおしまいです。その前に潔《いさぎよ》く幕を引きましょう。どこまでも堕《お》ちる前に自ら踏《ふ》みとどまることこそ、茶家の誇りというものではないですか。後継《こうけい》には春姫がいます。言葉はなくとも聡明《そうめい》な娘《むすめ》です。英姫大伯母様ならきっと……良き、|伴侶《はんりょ》を選んでくださいます。正道に帰る道はまだ残っています。そして後の世で、紅藍両家に並ぶ|誉《ほま》れよと王に称《たた》えられる可能性を、茶家を継《つ》ぐ子孫たちに残してあげられるのは、今しかないんです」沈黙《ちんもく》が落ちた。  静寂が《せいじやく》不自然なほど長いと思いはじめた克抱は顔を上げー畦目《どうもく》した。  ぶるぶると、仲障は傍目《はため》にわかるほど震《ふる》えていた。敏深《しわぶか》い面に欄々《おもてらんらん》と輝く双膵《そうぼう》が、それがあまりの怒《いか》りゆえと伝えてきた。 「……何一つ満足にできぬお前が茶家の誇りだと?」  地の底を這《は》うかのような声音だった。 「知った風な口を利《き》くな! その言葉を口にして良いのはお前ではない!! 」  りん、と仲障は乱暴に鈴《すず》を鳴らした。|瞬《またた》く間に克抱は能面のような男たちに取り押さえられ、引きずり倒《たお》された。 「お祖父様!?」 「お前と会おうなどという気まぐれを起こしたのが|間違《ま ちが》いだった。最初から|息子《むすこ 》と同じ場所に放りこんでおけばよかったわ」 「父上と……? どういうことです」床《ゆか》に押しっけられた顔を懸命《けんめい》に上げ、克陶は祖父を見上げた。 「父上はどこに? ご病気が少しでも良くなるようにと遠地にて静養なさっているはずではなかったのですか!?」仲障はふんと荒々《あらあら》しく鼻を鳴らした。 「だからお前は愚かなのだ。茶家直系に気のふれた者がいるなどと、知られるわけにゆくか。あれなら自分の立場も知らず、今でも座牢《ざろう》でケタケタ笑っておるわ」  克泡はみるみる青ざめた。自分の実の父であり、仲障の実の|息子《むすこ 》なのだ。 「そんな……あまりにひどいなさりようではありませんか!」 「そう思うなら自分で慰《なぐさ》めてやるがよい。選定式には出してやる。−連れて行け」 「お祖父様!!」  必死の抵抗《ていこう》もかなわず、克抱は男たちに腕《うで》をとられて引きずられていく。  仲障は孫の背中に言葉を投げた。 「お前は昔から鴛洵《あに》を慕《した》っていたな。……教えてやろう。いいか、なにもお前が目指さずとも、わしのほうが先に兄と並ぶぞ」 「何を−」言葉の意味を聞くまもなく、二人を断《た》ち切るように重い音を立てて分厚い扉が《とびら》閉じた。  どこかで人のものとも思われぬ笑い声が響《ひぴ》いたような気がしたのは、果たして気のせいだったのか−。       ・翁・怨・   −茶家の誇りを取り戻《も1.こ》す−。 「それが、駕泡の口癖《くちぐせ》じゃった……」  繚《ひよう》英姫は昔を懐《なつ》かしむかのように、そっと瞼を伏《まぶたふ》せた。 「そのためなら、どんな汚名《おめい》もうけた。降りそそぐ誹誘《ひぽう》中傷にも、ただの一度も弁解なぞしたことはなかった。言の葉を弄《ろう》するよりただ黙々《もくもく》と心を尽《つ》くし、|陛下《へいか 》にお仕えして誠を示した。  お前のような狸《たぬき》さえおらねば、陛下の右腕は間違いなく鴛洵じゃった」  すべてに錠が《じょう》おりたはずのこの室《へや》で、英姫の言葉とともに|煙《けむり》のごとく若い男が現れた。  いくらでもある中央の空間ではなく隅《すみ》の方にそろっと、まるで怒られるのを覚悟するかのように立ったのは、よく見知ってはいるが五十年も昔の顔だ。けれど英姫はまったく動じなかった。ふん、と鼻を鳴らす。 「よう来やったなこの腐《くさ》れ男。よくもあたくしの前にその面《っら》さらしたものじゃ」  男は自分の姿を見ても|眉《まゆ》一つ動かさない昔なじみに嘆息《たんそく》した。ふと、やはり|驚《おどろ》きもしなかった彼女の夫を思いだして小さく笑う。……よく、似ている。 「……英姫、君が望むなら、ここからすぐに出してあげられるのだが……」 「無用じゃこの唐変木《とうへんぼく》、狐狸妖怪《こりようかい》、人外魔境《まきょう》の若作り聖誰がお前なんぞの力を借りるか」  英姫はズバズパと男を一刀両断してのけた。男は首をすくめて後ずさった。昔も今も多分これからも、自分を一歩後退させるという偉業《いぎよう》を成し遂《と》げられるのは彼女だけだろう。 「ひとつ|訊《き》く。お前が一年半もガメつづけた茶家当主指輪は今どこにあるのじゃ?」 「……ガメ……だ、だいぶ口が悪くなったな英姫。いや、指輪は近いうちにここへ戻る」 「そうか。それだけ聞けばもう用無しじゃ。とっととどこぞへと消え失《う》せい」 「英姫……」                                                                                                             、ノ 「ここに入れられたときにわたくLは決めた。我《 4》が夫の一族の誰かがここからわたくLを出そうとせぬ限り自ら出て行かぬと」  英姫は齢《よわい》を感じさせぬ凛々《りり》しさで言い切った。 「未来はな、いまだ時が無限にある若者の手でこそ切り拓《ひら》くものじゃ。すべてを壊《こわ》すことも、も午一度やり直すことも、これから先そこで生きていく者にこそ決める権利がある。老いた者はただ、求められたときに求められただけ知恵《ちえ》を貸し導いてやればよい。……あたくしが出ていき、一喝《いつかつ》して馬鹿者《ばかもの》の尻《しり》を|蹴飛《けと》ばしてやるのは簡単じゃ。けれどわたくLが死んだあとはどうなる? すべてを変える果てない時はとうに使い果たし、遠い昔にゆき過ぎたのに」 「…………」 「だからあたくしはただ待つ。よいか、決して動くのが|面倒《めんどう》なわけではないぞ。わたくしはこう見えて、いま人生最後の大勝負の真っ最中なのだ。お前に構っておる暇などない」邪険《じやけん》に追いやる姿もその言葉の強さも昔のままで。 「話があるなら、すべてが終わったあとに聞いてやる。一年半の遅刻《ちこく》の理由もたっぷりとな」男は笑いたくなった。英姫は何も変わらない。変わらず美しい。彼女こそ茶鴛抱を愛し、愛されたたった一人の稀《まれ》なる女性。 「……勝算は?」 「そんなもの、いちいち|真面目《まじめ》に考えているから男はダメなのじゃ。よいか、あたくしが一度でも勝算なぞ考えていたら、あの鴛泡を手に入れることなぞ永劫《えいごう》不可能じやったえ」  今でもあざやかに思いだすことができる。  それは星が満天に|瞬《またた》く夜のことだった。降るような秋の夜空の下に引っ張り出された彼は、野の虫たちが幻想《げんそう》的な楽を奏《かな》でるなか、愛《いと》しい者から胸震《ふる》える愛の言葉をもらった。 『とっとと帰んなさいよ』 『もう、お帰りになってください』  彼らはそろって素っ気ない口調でそう告げた。 『印と佩玉、《はいぎよく》届けてくれてありがとう。もう旅に戻《もご》っていいわ』  少女はひらひらと犬でも追い払《はら》うように手を振《ふ》り、『龍蓮《りゆうれん》さん、もう少し落ち梧た頃《ころ》紅、また遊びにいらしてく胱�い』  きよぜつ少年はふたたびの来訪を歓迎する旨を述べたが、しかしその瞳にははっきりと拒絶の意思が宿っていた。  返事をしない自分に、少年は懸命《けんめい》に懇願《こんがん》し、少女はついには怒《おこ》りだした。 『あんたと|一緒《いっしょ》にいると目立ってしょうがないし気力は|消耗《しょうもう》するしたいして役にも立たないど  ころか|邪魔《じゃま 》だから帰んなさいっていってるのよ!』  そう言い放つと、唇《くちびる》をかみしめて少女はふいとそっぽを向いた。  いつもならとりなす少年も、今回は何も言わなかった。 『……つ! なにへらへら笑ってんのよ!』  少女にそういわれるまで、彼は自分が笑っていたことにも気づかなかった。感情の赴《おもむ》くまま、彼はぴt? ろろ、と喜びの笛を吹き鳴《な》らした。  いつもならガックリと肩《かた》を落として|諦《あきら》め半分聞き入ってくれる二人なのだが、そのときは違った。少女は吹きはじめた龍蓮の鉄笛を乱暴に払いのけた。  ひょろり〜と悲しげに止まった笛の音以上に、少女は泣きそうな顔をしていた。 『お願い帰って。あなたを利用するわけにはいかないの。でもこのままじゃ−』  勘−彼らと出会えた日から、世界は鮮《あぎ》やかに彩《いろど》られ、未知なる喜びにあふれた。  誰も自分を利用することはできない。荘静蘭《しせいらん》にも、浪燕青《ろうえんせい》にも、柴彰《さいしょう》にも。当然のようにかの者たちが『藍龍蓮』《らんりゆうれん》の協力を前提に話を進めていようとも。そのことに心の友らも表立って反対はしなかった。司牧《しぼく》ならば大局を見て利用できるものは利用すべきだからだ。  けれど、州牧《しゅうぼく》でない彼らは、迷いなく 「帰れ」という。  彼らは知らない。この世でどれだけの人間が『藍龍蓮』と知ってなおその言葉がいえるか。  これほど|優《やさ》しい言葉を、龍蓮は知らない。十八年かけてさがしつづけたものが、いま、目の前にある。これからまた十八年かけてさがしても、もう決して見つかるまい。 「……だから利用されるために、残っていたのだが」  この世でたった二人−彼らだけが『藍龍蓮』を利用できるのに。  秋風に散らされた木の葉で埋《う》もれた街道《かいどう》を行きつつ、笛を吹く合間を縫《ぬ》って龍蓮は|呟《つぶや》いた。  もう何度あのときの光景を繰《く》り返し思い返したことか。近ごろでは記憶がすり切れたらどうしようという不安から少々控《ひか》えようと思ってもいるが、ついうっかり考えてしまう。  一人きりの孤独《こどく》な世界からすくいあげてくれたことだけで充分だ《じゆうぶん》ったのに。なぜ彼らはこうも惜《お》しげないのか。自らも彼らの心の友たるにふさわしく、その心根を見習わなくてはならない。まず麗《うるわ》しき笛の音で道行く人を惜しげなく喜ばせよう。そして−。 「そこな少年少女よ。さあこの施《ほどこ》しを受けるがよい。なに礼なぞ無用。そして境確《これん》はあっち、金華《きんか》は向こうだ。一日二日もあればつこう。君に幸あれ」街道脇《わき》の石積みに座っていた少女は、目を丸くして龍蓮のきしだしたものを受けとった。|驚《おどろ》いているのはもちろん、手渡《てわた》されたものに対してに違《ちが》いない。  一方、その脇で彼女の足を看《み》ていた二人の少年は、龍蓮の姿になぜか大興奮した。 「なんとかっこいい! 曜春、《ようしゅん》新生�茶州《さしゅう》の禿鷹《はげたか》″の衣裳《いしょう》大決定だ! これぞふさわしい!」 「はいお頭! 《かしら》じゃあこの仕事を完遂《かんすい》したら川で砂金さらいしてお金ためて布買いましょうね! ちゃんと覚えておいて裁断してくださいよー僕頑張《がんぼ》って縫いますから」 「はっはっは。任せよ。……しかしあの羽根がなーここらでほあんな巨鳥は《きよちよう》いない……」我が道を行く藍龍蓮は|道端《みちばた》の少年少女に構わずとっくに歩き出しており、お頭と呼ばれた年  長の少年だけが、うらやましそうに彼の頭でゆらゆらしている羽根を見送っていた。 「なんとっ! じゃあこれで金華を経由しないで直接境壇に入れるのかっ!?」  こくりと肯い《うなず》た春姫に、お頭こと翔琳は《しようりん》、あの素敵《すてき》なお兄さんからもらった木簡をしげしげと眺《なが》めた。自分たちの木簡と違う点は、裏に二頭の龍と蓮《りゆうはす》の泉の絵柄《えがら》があるだけだが。 「ふーむ。なのにうっかりお衣裳に見とれて礼も申さなかったぞ。大失敗だ。しかしなんと諷《さつ》爽《そう》として義侠心《ぎきようしん》あふれた若殿《わかとの》であろう。�茶州の禿鷹″に勧誘《かんゆう》すればよかったな……」 「ああーそうですよ! 僕、僕あのお兄さんになら副頭目の地位を譲《ゆヂ》っても構いませんっ」春姫はぎょっとした。慌《あわ》てて地面に字を書いて 「彼」を説明しようとし、挫折《ぎせつ》する。彩七家などまるで関係ない彼らには、藍家もその直系も、何一つ意味をもたない。そう、彼らこそ真に自由に、風のように生きられる稀有《けう》な存在《もの》。 「じゃあ春姫殿、このまま境噂に向かって構わぬか〜」  春姫はもう一度肯いた。それを見て、お頭が顎《あご》に手をやった。 「だが境壇にくるときは、金華の|偉《えら》い人にひとこと言ってけというのも燕青の依頼《いらい》だからな。依頼に反しては義賊《ぎぞく》の名折れ。曜春、金華の偉い人にこの旨《むね》申し伝えに行ってくれるか」 「がってん承知でござるー!」  曜春は単独の密命を受けたことにバリキり、獣《けもの》のように金華に向けて走り出した。                                                                                                                                                                                                                                                            ヽ. 「さあ春姫殿、またおぶきってくれ。もう一頑張りだから、今までより速く駆《ふ�》ける。ここからなら今日中に墟確につくぞ。もう崖《がけ》を駆け下りることもないからご心配めさるるな」春姫は、もし声が出せても悲鳴を上げる前に失神していただろう過去を思い出した。……考えるだけでまた目の前がくらくらしそうだ。  彼らのいう最短|距離《きょり 》とは野生の獣の最短距離と同意語だった。しかし確かに怖《おそ》ろしく速く、春姫がひと月かけてきた道のりをたった数日で踏破《とょノは》してしまった。  春姫はおとなしく翔琳の背に乗った。もうすっかり慣れた、頬《ほお》を切る風に目を細めながら、春姫はただ境壇の方角をまっすぐ見据《みす》えた。  野生の獣のように自由で強い二人とは、正反対の人があの都にいる。  あらゆるものに縛《しば》られ、自由をもたない人だった。家、名、血筋−彼自身の誇《ほこ》りゆえに、どれほど息が苦しくてもそこに踏《ふ》みとどまった。|僅《わず》かな|隙間《すきま 》もあったのに、決してそこへ逃《に》げこまなかった。彼の優しさは決して弱さではない。自分に違《あ》いにくることでますます首が絞《し》まるのに、それでも照れたように笑ってきてくれたひと。 『鴛洵大伯父《えんじゅんおおおじ》様の書物を借りにきたんだ。……よかったら、一緒に読もう』  英姫お祖母様《ぼあさま》はいつも 「桃園《とうえん》にでも|誘《さそ》いや! |馬鹿《ばか》めがっ」とぷりぷり怒っていたものだけれど、春姫は一緒に本を読むだけで充分嬉《じゆうぶんうれ》しかった。  口がきけないこと、異能の一族たる繚家の血に対する本能的な忌避《きひ》、そしてあの茶鴛洵の血を継《つ》ぐたった一人の孫娘《まごむすめ》であるがゆえに、春姫もまた誰からも相手にされなかった。  初めて逢ったときは、なぜかみるみる顔を真っ赤にし、しどろもどろに何ごとか呟いたかと思うと走っていなくなってしまった。かと思うとすぐに、根っこがついたままの花を手に戻ってきて、春姫に押しっけるとまた脱兎《だつと》のごとく逃げていった。  彼はたくさんのあたたかさをくれた。祖父母の他《はか》に、ただ一人だけ。彼だけが。   −春姫、よいな。お祖母様との約束じゃ。   −某《そ》は、ただ一人のためだけに。  英姫の声が起《よみがえ》る。春姫は目を細めた。それはもう遥《はる》か昔のこと。   −はい、おばあさま。おやくそくします。  その約束を最初で最後に、春姫は声を失った。 『男は馬鹿じゃ。ゆえにいつだって女が助けに行くはめになるのじゃ』  祖母は正しい。  さあ、あの人を助けに行かなくては。       ・翁・翁・  それは招待状が届いて数日後の夜だった。  夕餉《ゆうげ》ののち、お茶を飲みがてら茶家対策を話し合っていたはずが、妙な《みょう》方向に話が転がり、なぜか茶朔抱《さくじゅん》の話題となった。 「沓《くつ》を履《は》かせろだぁ? そんで履かせてやったのか姫さん!?」  そうなるとネタの披露《ひろう》はいちばん接点が多かった秀麗《しゅうれい》になり、そうやって思いだしてみると、確かにあの放蕩《ほうとう》若様には苦労しっぱなしだった。 「んなわけないでしょう。即座《そくざ》に窓から投げ捨てたわよ」 「当然ですね。どこの時代のバカ殿ですか」  静蘭はにっこりと応じたが、その外面《そとづら》のみの笑顔《えがお》は隣《となり》にいた燕青の背筋を|凍《こお》らせた。 「はーそんな人本当にいるんですねt。……自分で履いたほうが早いと思いますけど」  と影月《えいげつ》が感心すれば、その隣で、 「人件費の無駄《むだ》の最たるものですね。被雇用者《ひこようしゃ》には楽して稼《かせ》げるありがたいご主人ですが」  そろばんをはじき出しかねない柴彰が肩をすくめる。見事に三者三様の答えが揃《lてろ》った。そして燕青は、そのどれとも違う意見を呈した。 「馬鹿かあいつ。男が女の子にすね毛みせて沓《くつ》はかせて何が楽しいんだよ。嫌がらせじゃん」 「……あー…うーん、でも若様にはすね毛なかったわ。ていうか無駄毛処理は|完璧《かんぺき》だったのよね。はっきりいって負けたって思ったもの私」思いだしたような秀鹿の言葉に、燕青はくわっと目を剥《む》いた。 「なんだそれ! 馬鹿倍増! 馬鹿だぞ朔《さく》ッ。男としてダメだろそれはッ!」 「え、そ、そうなの。何がダメなの。女の子としてはあるよりないほうがいいけど」  なぜか影月がぎょっと飛び上がり、急にそわそわしはじめた。  燕青は座り直し、『じっくり説教体勢』に入る。 「姫さんいいか、男らしさってのはまさに無駄毛にあるんだ。確かに姫さんくらいの歳《とし》じゃその良さはわからんかもしれん。だが大人の女と大人の男にとっちゃ違《ちが》う。特に髭《ひげ》は大事だ。男の浪漫なんだ。今は俺も姫さん命令で仕方なく剃《そ》ってるが、ちゃんと整える|暇《ひま》ができたらカッコ良く生やす気満々だ。……なのにいい歳してあの野郎《やろう》。わかったぞ。あいつがダメダメなのは無駄毛処理のせいだなっ! いっぺんぼうぼうにしてやらんといかんッ」そして燕青は梶《こん》をひっつかむと、いきなり放り投げるように窓につきだした。 「そしたらお前の人生観も絶対変わるぞ朔! ・まともな性格に戻《もど》ることうけあいだ。俺がかっこいい無駄毛の整え方を教えてやる。さあ生まれなおす気があるか朔っ!?」秀寮はその時ようやく、静蘭が�干将″《かんしょう》の柄《つか》に手をかけていることに気がついた。  まさかーと、梶の先にある風雅《ふうが》な細工の円窓を弾《はじ》かれたように見上げる。  すると月明かりに照らされた窓に、ふわりと影絵《かげえ》のように人の姿が映った。 「……まったく君は頭の|天辺《てっぺん》から|爪先《つまさき》まで相変わらずおばかさんだね、浪燕青」  秀麗にはいつどうやって窓があいたのかもわからなかった。けれど次の|瞬間《しゅんかん》には、その人影は室《へや》の中にあった。目にも綾《あや》な見事な衣裳が月に準《ま》え、ゆるやかに流れる髪《かみ》とあいまって艶《つや》を増す。その優美な|微笑《ほほえ》みは最後に見たものといささかも変わっていなかった。 「だいたい私は無駄毛が嫌《きら》いなんだ。君とは根本的に考え方が違うんだよ。一生相容《あいい》れないのだから、説得するだけ無駄だよ」 「へーそうかい。じゃ、姫さんが髭ステキ朔洵生やしてっつってもお前は断るんだな!?」 「もちろん生やすよ」 「なんじゃそりゃー!」  |緊迫《きんぱく》した|状況《じょうきょう》のはずが、無駄毛話のせいでなんとなくおかしなことになった。  それにつられて影月は初めて見る茶朔泡にうっかり感心してしまった。 「うわぁ。あの人が朔拘さんですかt。緯度《されい》な人ですねt。静蘭さんとはまた違った感じの」 「|冗談《じょうだん》でも同列に並べないでください。いいですか影月くん、あれは顔だけですからね、良いのは顔だけ。飴《あめ》あげるといわれてもついていっちやダメですからね」 「せ、静蘭さん……僕そんなに馬鹿じゃ……」彰にいたっては眼鏡《めがね》を光らせ、汲《く》めども尽《つ》きぬ永遠の商人魂《あきんどだましい》をすかさず発揮した。 「……似姿を腕《うで》の良い絵師に描《えが》かせて売りさばいたら、結構いい収入になりそうですねぇ」 「ヤメロ彰! お前マジ今考えたろ!?一年後の利益まできっかり算出すんなっ!」  秀麗はなんだか気が抜《ぬ》けて、笑い出してしまった。それを見た朔洵は、不本意そうにむっと柳眉《りゆうぴ》を畢《ひそ》めた。 「……まったく、笑われてしまったじゃないか。だから私は君が嫌いだよ、浪燕青。がさつで|野暮《やぼ》で美に緑《えん》がなくて。そんな調子だから無駄毛主義者は女の子に嫌われるんだよ」 「なにおう。お前みたいなつるつるが粋《いき》だってんなら野暮で結構だね。しっかり無駄毛処理するような軟弱野郎《なんじゃくやろう》に姫《ひめ》さんと二人きりになる資格はないッ!」  柴彰はいたって冷静に、逆に影月はバラバラとこの論戦を見守った。無駄毛論争にどちらが勝利するかは、今後の参考のために大変重要なことだったので、影月は真剣《しんけん》に聞いていた。 「じゃ、�小旋風″《しようせんぶう》にも同じことをいってあげなよ。あの顔は絶対やってるはずだから」  静蘭は無言でそっぽを向いた。しかし燕青はひるまなかった。 「こいつはやってるにしても自己責任だからいいんだ! 問題はお前だ。賓も人任せにするようなやつが自分で無駄毛処理するとは思えないぞ。いいか、いちばん気にくわないのは、お前ってヤツにとことん生産性がない点だ! そんな甲斐性《かいしょう》なしに姫さんをやれるかう!! 」 「別に私が生産性皆無《かいむ》でも生活には困らないし、姫君があちこち元気に駆けずり回って働くのを見るのはとっても楽しいから、それを|邪魔《じゃま 》する気はないよ。何か問題があるの?」 「くわーっ! あーいえばこーいいやがって」まさに二人の意見は平行線をたどった。彼らの間には深すぎる溝《みぞ》があった。  ——こんな再会になるとは、まったく考えもしなかった。  秀麗は笑い涙《なみだ》をふきつつ顔を上げた。まっすぐに放蕩若様を見て、影月ではないが素直《すなお》に感心してしまう。 (……相変わらず本当に顔はいいわねぇ……)  あの長すぎる睫毛《まつげ》を何度ぶちっとひっこ抜いてやりたい衝動《しょうどう》にかられたことか。 (……考えてみれば劉輝《りゆうき》に対しても、顔が良くてひっぱたきたいって思ってたわね私……)  正反対なはずなのに酷似《こく川レ》しているひと。  朔泡が秀麗の視線に気づいて、つと顔を向けた。甘やかな瞳《ひとみ》に見つめられると、忘れていた小波《さざなみ》が胸の中に立つのがわかる。秀寮は息を吸った。 「ずいぶん早いけど、私をつれにきたんでしょう〜」 『君を愛しているよ』  ……多分、同じことを言われたからだけではない。 『−そなたを愛している』  思うがままにすべてを縛《しば》り、何もかも|奪《うば》い去ることができる二人。  片やそれを躊躇《ためら》わず実行し、片や秀麗を自由にして手をはなしてくれた。 『それでも、余は|寂《さび》しい』  たった一度そう噴《ききや》いて送り出してくれた人のためにも、今は自分自身のためにも、秀麗はこの男とちゃんと向き合わなくてはならなかった。 「招待状をありがとう。行くのは私よ」  まるで|賭博《と ばく》で幸子《さいころ》をふるように勢いよくかつ色気なく突きだされた手に、朔泡が笑った。 「……よかった。まだ君に飽《あ》きてなくて」  公主に対するがごとく優雅《ゆうが》に秀麗の手をとると、朔泡はその甲《こう》に軽く口づけた。  意表をつかれ、ぎゃっと|叫《さけ》ぶと秀麗は手を引っ込めた。同時に朔泡を正確に狙《ねら》って短刀が飛んだが、これは避《よ》けられて向かいの|壁《かべ》に深々と突き刺《き》さった。 「壁修理代銀一両を浪補佐《ほさ》の借金に追加」と柴彰がボソリと|呟《つぶや》き、それを聞いた燕青は 「高《たか》!」と悶《もだ》える。 「危ないな、�小旋風″」 「失礼。|目障《め ざわ》りな蝿《はえ》がいたのでつい」 「口も目も腕も悪くなったね。いらぬ苦労をしたのかな、かわいそうに」 「どこかの遊び呆《はう》けて脳みそまで腐《くさ》れきった|馬鹿《ばか》殿のようにならなくて幸いでしたよ」  パチパチと飛び散る火花が見えたような気がして、影月はうわーと内心冷《ひ》や|汗《あせ》をかいた。  静蘭の据《す》わりきった目も怖《こわ》いが、その前でまだ悠然《ゆうぜん》と微笑んでいられる朔泡もすごい。 (ぼ、僕ももっと頑張《がんぼ》らなくっちゃー……)  よくわからないがひしひしとそう感じた。そしてもっとすごいのは、この火花にまるで気づかずちやつちやと自分のお茶器を片づけて必要最低限の荷物をまとめている秀麗だ。 「さて、用意できたわよ。……じゃ、みんな、なんだか迎《むか》えにきてくれたみたいだから、行くあわ。浮《う》いた軒《くるま》代は燕青の借金返済に充《あ》ててあげてね。あとはよろしく」秀君は長身の朔抱に、精一杯背伸《せいいつぼいせの》びをして言った。 「�曹″《つぼみ》、絶対返してもらいますからね!」  この|誘《さそ》いに応じなければ、茶家の懐《ふところ》に入り込めない。理性ではわかっていても、どうしても行かせたくない静蘭を燕青が腕をつかんで押しとどめる。  朔抱は微笑むと、秀麗の腰《こし》をさらうように引き寄せて、あっというまに窓から夜の闇《やみ》のなかに消えてしまった。 「ああういに掃《は》き溜《だ》めから鶴《つる》が飛んでって野郎《はきだめ》だけになっちまったよー……」  燕青のしんみりとした呟きは、その場の全員が目を背《そむ》けていた事実をズパリついていた。まさに野郎だらけとなった室には、隙間風《すきまかぜ》が吹《ふ》いたようにわびしい空気が漂《ただよ》う。  静蘭がいくら美人でも、影月がいくら健気《けなげ》でも、しょせん野郎は野郎だった。  だが燕青は真っ先に気を取り直すと、静蘭の頭をぐりぐりなでた。 「偉《えら》かったぞー静蘭。よく|我慢《が まん》したな。かいぐりしてやる」 「いらんわ!」  そのときだった。あらぬ気配に燕青と静蘭が弾かれたように窓を見る。燕青は即座《そくぎ》に梶を回転させ、静蘭は�干脾″を電光石火の速さで抜き去った。 「マジかよ朔以外でここまで近寄れるやつがまだ−」  月を背にふわりと窓に浮かぶのは、|妙《みょう》にいびつな人影だった。  燕青の梶を、影は間一髪《かんいっぱつ》でかわしてのける。それを見た静蘭は瞬時《しゅんじ》に殺気に切り替《か》えた。様子見とはいえ燕青の繰《く》り出した梶をかわすやつに手加減などしたら、こっちがやられる。  しかし次の瞬間、燕青は梶を止めると、手首を返して静蘭の剣《けん》を打ち払《はら》った。 「うわーやめやめ静蘭ちょい待ちっ!! こいつらは」  そして実に久しぶりの絶叫が響《ぜつきようひぴ》き渡《わた》った。 「ばばはバカモノ——訂っ−つつ‖‥婦女子がおるのに剣纏咽けるやつがあるか−つ。‥」以前よりぐっと背が伸びた少年の背で、一人の少女が驚いたように目を丸くしていた。  茶春姫《さしゅんき》。他《はか》ならぬ燕青自身が茶家から連れ出して|匿《かくま》った姫である。  ややあって燕青は|呆《あき》れたように頭をかいた。 「あー……ほんっと世の中ってよくできてらぁな」   −鶴が飛んでったらもう一羽が飛びこんできたぜ。       ・翁攣巻・  そこには|僅《わず》かに一つ燭台が《しょくだい》あるだけだった。  その弱々しい明かりも鉄格子《てつごうし》の中までは届かない。まさに手の届かない希望を見せつけられているかのようだった。  闇の深淵《しんえん》で、克陶の頬《こくじゅんほお》にもう幾度《いくど》流したかしれぬ涙が伝った。 「父上、……父上、僕は、どう、したら……」  ケタケタと常軌《じょうき》を逸《いつ》した笑いが響く。時折なんの|前触《まえぶ 》れもなく転がって暴れる父が壁や鉄格子に頭を打ちつけないように、克洵はほとんど一睡《いっすい》もせず、声を頼《たよ》りに位置を見ながらずっとかばいつづけてきた。汚物《おぶつ》を踏《ふ》んでも、|奇声《き せい》でなじられ爪《つめ》を立てられても、どれほど気力を消《しょう》耗《もう》してもやめられない。枯《か》れ木《き》のように細く、紙のように軽いその身体《からだ》に涙が出た。  父は立派な人ではなかった。多分、いちばん自分と似ていた。何もできぬろくでなしと仲障にいつも怒《おこ》られ、|罵声《ば せい》を浴びせられていた。純粋《じゅんすい》なる本家の血を誇《はこ》りとする祖母と母の噸弄《ちょうろう》の的だった。力がすべての草抱《あに》にはよく|蹴飛《けと》ばされ、おどおどと小心で、他人の目を気にして小      あめ           《きおく》じ写ぶつ・けれどたった=庄だけ、さく背を丸めているような人だった。遊んでもらった記憶もない。  照れたように笑って飴をくれたことを覚えている。それだけで充分だった。克抱は、そのたった一度、笑って飴をくれた人が好きだった。  けれどいつしか父の心の歯車は狂《くる》っていった。それでも、もしかしたらー誰の嘲笑《だれちょうしょう》にも傷つかずに生きられる、そんな幸せの形もあるのかもしれないと、そう無理に自分を|納得《なっとく》させながら、療養《1■りよ_つよすつ》に出かける父を送り出した。  それが。こんな。 「……もう……もう|駄目《だめ》だ……茶家は……」  笑いすぎて咳《せ》き込む父の背をなでてやりながら、克泡は顔を歪《ゆが》めて泣いた。  自分は本当に余計なことしかしない。お祖父様《じいきま》に|煙《けむり》たがられてこんなところに放《ほう》りこまれても仕方ないかもしれない。けれど父は。  ここまでされる、何をしたというのだろう。もう何もできないのに。  押し|潰《つぶ》され、おいつめられ、絶望のさらにその下に叩《たた》き落とされて。父の心をこなごなに壊《こわ》しておいて、なぜ最後の最後までこんな仕打ちができる〜もう祖父には、ひとかけらの情さえ残ってはいないのか。  ずるり、と闇が惹《うごめ》く。 「ご自分の……実の|息子《むすこ 》ではありませんか……!」  もう駄目だ、と克抱は繰り返した。何もかもが遅《おそ》すぎた。最後の最後までぐずぐずしていた  自分は馬鹿だ。本当に馬鹿だった。もうすべては手|遅《おく》れだ。絶望の歯車は回りつづける。石が坂を転がり落ちるように留《とど》まることなく破滅《はめつ》に向かう−。 「えん……鴛洵大伯父《おおおじ》様……鴛洵大伯父様……!」  敬愛するあの人なら、いったいどうしただろう。  紅藍《こうらん》両家さえしのぎ、玉階の最上段まで登り詰《つ》め、前王のそばで�花″までうけるほど重用された百官の長。そして汚泥《おでい》に沈《しず》みかけていた茶家を寸前で引きずり上げた。  克抱は気づいたように顔を上げた。−そうだ。そうだった。 「……本家の男継嗣をぜんぶ殺して……」  このうえなく敬愛していたけれど、その点だけは認められなかった。  けれど克泡にも今ならわかる。  何もかも手遅れだったのだ。それしかできることはなかったのだ。汚濁《おだく》を少しずつすくいあげ、清水といれかえる猶予《ゆうよ》も手段もないほどこの家は腐臭《ふしゅう》に満ちていたのだ。だから堰《せき》を叩き壊して最初からやり直すことしか、方法は残されていなかった。 「……僕、が、あと、できることは……」  声がかすれた。もうそれしかないような気がした。いいや、それだけは残っている。  父がいつしか笑いやみ、自分の手をそっと|握《にぎ》ったことさえ、克洵は気づかなかった。 「すべてを……鴛洵大伯父様のように……この手、で……」  祖父は当主選定式の日には、ここから出してやると言っていた。その日ならば一族の重要人  物がすべてそろう。もちろん祖父も。  茶家のために、春姫のために、最後に何かができるとしたら、きっともうそれしか、ない。 「……そこで……すべてを終わり、に、……」  ぼんやりと狂気《きょうき》を帯び始めた声に惹《ひ》かれるように、ゆるゆると座牢《ぎろう》の闇が触手《しょくしゅ》を伸ばした。       ・翁鋸歯鎗 「こんばんはー! 夜分遅くに失礼しまーすっ。磐は�茶州の禿鷹�と申す者でご!?輿元気な掛《か》け声とともに、どっかんと金華郡府最高執政室《しつせいしっ》の窓《ヽ》から何かが転がり込んできた。ぎょっと|槍《やり》を構える武更《ぶり》を押しとどめたのは、柴太守《たいしゅ》と由官吏《ゆかんり》だった。 「由官吏……」 「ええ。私のお客様のようです」  由官吏はくすくすと笑い、いきなり押し入ってきた珍客lを出迎《ちんきやくでむか》えるためにゆっくりと立ちあがった。その様子を見た客人・曜春は、すぐに彼のもとへ駆《ふ�》け寄った。 「足がお悪いなら、座ったままでよいでござるよ!」  由官吏は驚いた。気づかれないように立ちあがったつもりだったのだが。 「よく……おわかりになりましたね」 「足に怪我《けが》をした野鹿《のじか》そっくりでしたのでー」  あっけらかんとした答《こた》えに由官吏は|微笑《ほほえ》み、曜春の言葉に甘えて|椅子《いす》に座りなおした。 「浪燕青から伺《うかが》っております。よくいらっしゃいました。高名なる�茶州の禿鷹″殿《どの》」  丁寧《ていねい》な礼をとられることに慣れておらず、少年は真っ赤になった。 「あっ、その、とんでもないでござるt。それがしは副頭目で、修行中で、まだなんのお手柄《てがら》も立ててないでごわす。あっ、でも兄ちや……お頭《かしら》はちゃんとご高名でござ候ですからっ」めちゃめちゃな話し言葉に、柴太守と由官吏をのぞく全員が下を向き、吹きだすのをこらえてぶるぶると震《ふる》えた。多分人生でいちばん腹筋を使ったと彼らはのちに語った。 「……あなたが『いちばん偉い人』であらっしゃーいますか?」  慎重に訊《しんちょうたず》ねる曜春に、由官吏は|優《やさ》しい笑《え》みをこぼした。 「はい。この金華郡府内では私がいちばん高い位を拝命しております」 「なんとお若いのにご立派な。ご両親もきっと草葉の陰《かげ》から見守っておることでごじやる」  ぶひやんと誰かが妙な《みょう》くしゃみをしたが、由官吏は気づかないふりをした。彼はちゃんと礼儀を守り、こちらに敬意を払ってくれたのだ。 「お褒《ほ》めにあずかり大変光栄です。それで、お頭殿と茶春姫様はいかがなされました?」 「あっ、ええと、先に境噂にむかったのですじゃ」 「……境噂にですか? しかし今は私の発給する木簡なtにはあそこは……」 「通りがかりのとってもかっこいいお兄さんが、ご親切に別の木簡をくださったのでござるよ。そしたら春姫さまが、これで|大丈夫《だいじょうぶ》だっておっしゃったのでござ候」  ……通りすがりのかっこいいお兄さん? 由官吏は少し眉根《まゆね》を寄せた。 「裏に龍や蓮《りゆうはす》の絵がある木簡だったですじゃ。都には感心な若者がいるですじゃなー」  それだけで話は通じた。まったくどういう偶然《ぐうぜん》か、彼らは最強の切り札を引いたらしい。 「なるほど……ご連絡《れんらく》頂きまして、ありがとうございます。とても助かりました」 「いえいえそんなー依頼《いらい》はガッツリ果たすのが義賊《ぎぞく》でござるゆえ。それでは拙者これにて」  窓に足をかけた曜春を、由官吏は苦笑《くしよ事フ》しながら引き留めた。 「お待ちください。どちらへいかれるおつもりですか?」 「お頭をお助け申すのが副頭目の使命でごわす」 「ですが、境壇は今封鎖《ふうさ》中で入れませんよ? 入るとしたら検問破りをするしかありません」曜春はあっと声を上げた。城郭《じょうかく》にとりついてよじのぼって侵入《しんにゅう》することは可能だが、それでは偉大《いだい》なる初代義賊《ヽヽ》の父に面目《めんぼく》が立たない。  きちんと正座して考えこんでしまった少年に、由官吏はさりげなく提案した。 「実は私もそろそろ境壇に向かおうと思っているのですが、よろしければ道中警護をお願いできますか? そうしたら|一緒《いっしょ》に境噂に入れます」 「えっ、そんな! よろしゅうござりますか!?ああ下界は親切な御仁《ごじん》がたくさんですじゃ」 「でも、多分、それなりに危険ですけれども構いませんか?」 「それなりということはお腹《なか》をすかせた人喰《ひとく》い巨熊《きよぐま》五頭に追いかけられるくらいの危険でござるか。ほっ、しかし都の『それなり』はもっと程度が高いんですかじゃt?」 「……それほど危険じゃないかもしれません」  妙な感銘《みょうかんめい》を受けながら、由官吏は応えた。そしてふと思いついたように曜春に顔を向けた。 「その木簡をくださったかたの、どこに感心なきったのかうかがってもよろしいですか?」  すると曜春は子供らしく日を輝《かがや》かせた。言葉もぐっと砕《くだ》けたものになる。 「あのお衣裳《いしょう》です! 羽根とか色合いとか型とか斬新《ぎんしん》ですごーく格好よかったんです。お頭も感心して�茶州の禿鷹″の新衣裳とすることに大決定しました。もしお知り合いでしたら、衣装に使った鳥の生息地を教えてくださるよう、お頼《たの》みいただけますか!?羽根を抜《ぬ》きにいきたいんです。それにしてもやはりあか抜けた都人というのは違《ちが》いますねっ」大興奮である。しかし由官吏はまったく動じずに、やんわりとたしなめた。 「そうですか。では今度伺《うかが》ってみましょうね。ですが多分それは都人がどうという次元ではなく……なんと申しますか……かのお方の場合は、ご自身が斬新なんだと思いますよ」由官吏の優しい訂正《ていせい》で、彩雲国《さいうんこく》中の 「都人」の面子《メンツ》は救われたのである。  輿胤 「君を一足早く連れにきたのはね、お祖父様《じいきま》の命令だったんだよ」  茶本家《さほんけ》の離《はな》れが、秀麗に与《しゅうれいあた》えられた邸だ《やしき》った。離れといってもさすが腐《くさ》っても彩《さい》七家の本邸《ほんてい》である。はっきりいって離れだけで貴陽《きょう》の邵可《しようか》邸なみの広さだった。 「|邪魔《じゃま 》の入らないところでさっさと手込《てご》めにしろっていうから。そうしたら当主就任式と同時に結婚《けっこん》の儀《ぎ》を粛々と執《しゅくしゅくと》り行うらしいよ」秀贋は開いた口がふさがらなかった。もうどこからつっこんでいいのやら。 「……そ、そんなに紅家《こーワけ》の血がほしいわけ」 「お祖父様は今まで血の薄《うす》さで|馬鹿《ばか》にされてきたからねぇ」  朔油は《さくじゅん》ちょっと笑った。 「紅家直系の血を継《つ》ぎながら、|奇跡《き せき》のように守られてきた君には多分、一生わからないよ」  反発はなかった。きっとそうなのだろう。事実わからない。わからなくても構わない。  紅家の血筋が意味をもったのは去年の後宮入りと�鴛鳶彩花《えんおうさいか》″の木簡の際だけで、それまでの十七年を、秀麗はすべて自分の足で歩き、自分の手でものをつかみ、自分の目で世を見て自                                                                                        ま  分の耳で人の話を聞いてきた。そんな自分に何一つ恥《h_llll——》じるところはない。  秀麗が拠《よ》って立つのは、血でも名でもない。この身ひとつだ。 「で、あなたはその私を、て、手込めにするつもりで連れてきたと?」 「まあ最終的には」  秀麗は内心冷《ひ》や|汗《あせ》をかいた。劉輝《りゆうき》のときは男色家と信じ込み、答《しょう》太師からも 「夜の心配なし」とのお墨付《すみつ》きをもらっていたので、たとえ一つ布団《ふとん》に寝《ね》ていても平気だったが−。  しかし秀麗は精一杯虚勢《せいいっぱいきよせい》を張って見せた。 「ふ、ふふん。た、たとえそうなったとしても、あなたの嫁《よめ》になんかならないわよ」 「ああ、私も別に嫁とか婚姻《こんいん》とかほどうでもいいから」 「え」  気づいたときには朔抱に間合を詰《つ》められていた。朔抱はゆったりと音もなく動くので、近寄られるまでそのことに気づかない。秀麗は焦《あせ》ってそろりと左に動こうとした。しかしまさにその方向に白い手が伸び−|壁際《かべぎわ》に追いつめられ、顔の横に手をつかれて阻《ま∫》まれる。 「形態に興味はないよ。私のつまらない毎日に君が色をつけてくれるなら、それだけでいい」 「……あなたが飽《あ》きるまで、でしょう?」  朔陶は小さく首を傾《かし》げた。まるで、それを自分に確認《かくにん》するかのように|呟《つぶや》く。 「そう。……私が、飽きるまで」 「人を馬鹿にした話ね。まったく何がそんなにつまらないのか私にはさっぱりわからないわ」 「|怒《おこ》った? ……ああでも君は怒った顔もかわいい。本当に飽きないな」  麗《うるわ》しく微笑まれ、秀麗はぶるぶると震えた。 「——私より遥《はる》かに顔の良い男にそんなこと言われたかないわよ」 「それがね、顔の良《よ》し悪《あ》Lは私にとってあんまり重要ではないみたいなんだよ。美人はたくさん見てきたけれど、かわいいと思ったのは君だけだから」 「そりゃ良かったですね! ところでぜんっぜん褒め言葉になってないんですけどそれ」むしろ嫌味《いやみ》だ。秀麗は本気でこめかみを引きつらせた。どうせ自分は十人並みだ。 「1とどのつまり、あなたがとっとと飽きてくれれば私は放免《ほうめん》されるわけね。どうせ飽きっぽいなら今日までにすっかり忘れ去ってくれてればよかったのに。そしたら私は�膏″《つぽみ》を返してもらうだけでさっさと退散できたわ」妙な沈黙《ちん・もく》が落ちた。秀麗がうかがうように少し顔を上向けると、朔抱は寸前で表情をいつもの微笑《ぴしょう》にすりかえてしまった。 「そうだね。でも君は『特別』だから、ちょっと長引くかもしれない」 (…………〜)  秀麗はとりあえず言うべきことを言おうと、しっかり朔泡を見据《みす》えた。 「−私がここにきたのは、あなたの退屈をまざらわせるためじゃないわ。�膏″を返してもらうためよ。記憶違《きおくちが》いでなければ、あなたは私が州牧《しゅうぼく》になっても構わないといったわ」 「着任に�花″は必要だったかな」 「|普通《ふ つう》はいらないわね。でも私には必要なの」 『そなたらに与えた�菅″がひらくときを心待ちにしている−』  彼はそう言った。そう−あれはまだ�花″ではない。�曹″なのだ。けれど�菅″のままではいられない。秀麗の目指すものはその先にある。いつか花ひらかせ、あの�菅″を返上するーそのときのために。  自戒《じかい》のために、官吏《かんり》として前に進むために、秀麗にとってあの�膏″は必要なのだ。 「わかった。いいよ」  |一拍《いっぱく》もおかず返ってきた言葉に、秀麗のほうが何を言われたのかわからなかった。  そして次の瞬間、《しゅんかん》まるで手妻《てずま》のように朔陶の掌《てのひら》にあらわれたものを見てぎょっとした。 「それ−!」 「君自身がきてくれたからね。返してあげるよ。そうだね−茶家当主選定の当日に」 「なんですって!?」  朔抱は色めいた仕草で花轡《はなかんぎし》に口づけた。 「だってすぐに返してしまうと、君あっというまに飛んで逃《に》げてってしまいかねないし」 「に、ににに逃げないわよっ、そっちの当主就任式までほっ」 「なら別に構わないだろう? 私は約束は守るよ」 「わ、わかったわよ」  確かに、今のところこの若様が約束を破ったことはない。あまり食い下がって気を変えられ  ても困る。彼は本当に気まぐれで|面白《おもしろ》いと思ったことならなんでもやってしまう。  1人を殺すことさえも。  ふと思いだし、たちまち秀麗の心は冷えた。  彼があまりにも変わらないから、忘れてしまいそうになる。……それとも忘れてしまいたいのだろうか、自分は。 (……だめ。今はぐずぐず考えてる|暇《ひま》はないわ)  気持ちを切り替《か》えようと頭を振《ふ》った。そして単身ここに乗りこんだ二つめの目的のために、慎重に口をひらいた。 「……ちょっと訊いていいかしら。克洵《こくじゅん》さんはここに戻《もど》ってきているのよね?」 「おや」 「いま、どうしているの?」  すると朔抱はいかにもおかしそうに笑い出した。秀麗は不審《ふしん》そうに|眉《まゆ》を攣《ひそ》めた。 「……なによ」 「いや。そうだね、確かにいるよ。けれどこれは茶家の問題だ。君には関係がないことだろう?」 「個人的に心配しちゃいけないわけ」 「じゃあ『元気でいるよ』」その燕青なみに超《ちょう》適当な答え方に、秀麗の火山は噴火《ふんか》した。 「ちょっと!!そんな馬鹿にした言い方で、信用できると思ってるの!?」 「そう思うなら、君自身で調べてみたら?」  朔抱はくすくす笑って、軽く波打つ髪《かみ》をかきあげた。 「ここにいる間は君の好きにしていいよ。何をしても、どこを調べても構わない。もちろん母《おも》屋《や》もね。欲《ま》しいものがあったらなんでも用意してあげる。そうだね、でも夜になったら戻ってきて、私に二胡《にこ》を弾《ひ》いて、お茶を掩《い》れてほしいな。……あと」|壁《かべ》についたほうとは反対の手が秀麗に向かって伸《の》ばされた。思わずびくっと目をつぶって首をすくめると、|一拍《いっぱく》のち、まとめていた髪が重たげな音を立ててほどけおちた。 「髪は、こうしておろしていてほしいな。何度も言ったけれど、このほうが私好みなんだ」  耳元で囁《ささや》いたのを最後に、ついと離れる気配がした。  そろそろと目をひらくと、二歩離れたところで朔泡が艶麗《えんれい》な微笑《げしょう》を|浮《う》かべていた。 「無理強《‥し》いはしない、と言っただろう? 君が約束を守る限り、私も君との約束を守るよ。さて、君に望むことはこれくらいかな。それ以外の自由を妨げ《さまた》たりはしない。好きなだけお調べ」ぐっと秀麗の眉根《まゆね》が寄った。つまり克泡は、秀麗が少し調べたくらいでは見つけられないような場所におかれているということか。 「……文《ふみ》はだせる?」 「それは私の管轄《かんかつ》ではないが、だせるとしてもすべて検閲《けんえつ》されるだろう」 「そこまでするの!?」 「お祖父《じい》様はするみたいだね」  秀麗はぞっとした。すべての文を検《あらた》めるなら、無人の私室に侵入し《しんにゅう》て|花瓶《か びん》のなかまで調べているに違《ちが》いない。個人の最たる秘事である私的な文をのぞくというのはそういうことだ。 「……わかったわ」  連絡《れんらく》は何か別の方法を考えなくてはならないようだった。 「さて、じゃあ二胡の前にお茶を掩れてくれる? お茶っ葉はそこに色々とあるから」  朔掬は見事な細工が施《ほどこ》された二胡を用意しながら、にっこりと秀麗に笑ってみせた。 「もちろん、甘露茶《かんろちや》もそろっているから、ぜひ掩れてくれて構わないよ」  秀麗は無言かつ速攻《そつこう》で、甘露茶以外の茶葉を手にとったのだった。       ・翁。血瀞・緻  迷いなく|素晴《すば》らしい速さですべっていく筆に、男性陣《じん》の誰《だれ》もが感心した。 「はt。ずっと住んでたとはいえ、よくここまで細かく覚えてるなー」  春姫《しゅんき》は翔琳《しようりん》の背から下りたあと、丁寧《ていねい》に頭を下げて紙面で自己紹介と挨拶《しようかいあいきつ》をした。そしてすぐにもっと大きな紙を要求した。燕青《えんせい》でさえ首を傾げたが、とりあえず用意してやると、彼女はそこに広大な茶本邸《ほんてい》の見取り図を次々と描《えが》き出していったのである。  大卓いっぱいに広げた特大の紙がみるみる墨《すみ》で埋《う》まり、あっというまに画師顔負けの正確さで全体図が浮かびあがる。次にそのなかでも中心をなす母屋を指差すと、別の紙にさらに細か  く室《へや》を描き込みはじめた。すでに明けにも近い刻限だったが、春姫は手を休めなかった。 「……う、うわー。緑倣《こうゆう》さんじゃなくても絶対迷いますよ僕−」  |庶民《しょみん》の影月《えいげつ》には、もはやこれが一個人の家ということからして信じられない。  静蘭《せいらん》は別の意味で嘆《たん》じた。名家といわれる邸《やしき》の見取り図など、まず手に入らない。それを知られることは戦時においては陥落《かんらく》への致命的《ちめいてき》な足がかりとなり、その時点で勝敗は決したも同然だからである。ゆえにわざと入り組んだ複雑な造りに仕立て上げ、遠近法や|錯覚《さっかく》を利用して家人さえもすべてを把握《はあく》できないような構造にしてある。その見取り図は直系だけに代々伝えられ、邸の奥深くに幾重《いくえ》もの罠《わな》を仕掛《しか》けて、家宝さながらに安置してあるのが普通だ。  なのにそれが、いとも簡単に出現していく。 「……これは助かりますね。小型版に写してお嬢様《l寸レよゝフさま》に届けてさしあげましょう」 「だな。全商連よか適任の繋《つな》ぎ役もできたしな」  燕青は長椅子《ながいす》であぐらをかいていた翔琳の肩《かた》をボンと叩《たた》いた。 「お頭、義賊《かしらぎぞく》�茶州の禿鷹《はげたか》″二代目頭目として、もう一働きしてくれ」 「なにい? 燕青おぬしずっと思っていたがちょっとずうずうしすぎるぞ」 「連絡相手はな、去年の夏に貴陽で曜春が熱中症で倒《ようしゅんねつちゆうしようたお》れたとき、つきっきりで看病してくれた女の子だぞ。散々世話になったろtが。義賊なら恩返しくらいしてもいいだろ〜」途端《とたん》、くわっとお頭の目が見ひらいた。 「このバカモノが! それを早くいわんかっ。あの親切なおなごにはどうにかしてあのときの礼を近さねばならんと思っていたのだ! よかろうさあ申しつけい短 「これからいう場所に向かって、まずはあの女の子がどこにいるか捜してくれ。そのあとは俺らとの間を書状をもって行ったり来たりしてほしい。ただし、彼女以外には見つからないようにこっそりと慎重《しんちょう》にな」 「配酢の役目か。うむ、義賊たるにふさわしき仕事だな! 気に入った。ではそっちの準備が整ったら起こしてくれ。体力を蓄《たくわ》えるために今から一眠《ひとねむ》りする」そしてごろんと長椅子に寝転《ねころ》がった次の瞬間に、もうすやすやと寝息がたっていた。  見ていた影月は群にとられた。なんだか、いつでもどこでも何をしても全力全開な人だ。 「でも、こんな広いお邸で秀麗さん一人を正確に見つけられるんでしょうか〜」 「|大丈夫《だいじょうぶ》だろ。こいつの野性的カソは信用できる。なにしろ群れで飛んでる鳥の一羽一羽の特《とく》徴ま《ちょう》ですぐにつかんで見分けるやつだからな。姫さんの特徴を細かに教えてこいつの|記憶《き おく》力と照らしあわせればまず間違いないと思うぜ。にしてもほんと、なんつtかこいつと影月見てると同い歳《どし》でも色々だよなうて思うよ」影月はひっくりかえりそうになった。 「ぼ、僕と同じ…つてことは十三歳なんですかぁっ!?」 「去年十二歳だったからなぁ」 「…………………………」  なんというか、種類が違いすぎると静蘭と柴彰は思った。何せ−なぜか龍蓮《りゆうれん》の木簡をもっ  ていたので城門|突破《とっぱ 》したことはまあいいとしてもーどうして自分たちがここにいるとわかったのか?と訊《き》いたら、翔琳はあっけらかんとこう答えたのである。 『城門で、いきなり並足から見事な駆《か》け足《あし》になった妙な馬蹄《みょうばてい》のあとを発見して、城門兵に訊いてみたらなかの一人が燕青に酷似《こく川レ》していたゆえ、あとは馬蹄のあとを迫ってきた』……馬蹄のあとといったって、境|噂《うわさ》に馬が三頭しかいないわけもなし。しかも時間が経《た》ちすぎている。数え切れないほどの人や車輪にひきつぶされていたはずなのに、お頭は何の苦もなくここへたどり着いてしまった。まさに野生児である。これが影月ならあちこちから人の話を拾って論理的に考え考え、ここへ辿《たど》り着く方法を考えただろう。片や史上最年少状元及第、《きゅうだい》片や燕青お墨付《すみつ》きの超野生児。同じ十三年を生きて見事に|両《りょう》極端《きょくたん》を行っている。  その影月はといえば、長い沈黙《ちんもく》をもってとくとくと『お頭』の寝姿を見つめたあと、 「……僕も、もう少し背が欲しいですー」  それだけ|呟《つぶや》いた。  気になるのはそこなのか!?と燕青を含《ふく》めた全員が内心つっこんだが、あえて誰も口にはしなかった。多感なお年頃《としごろ》の悩《なや》みは、傍目《はため》にしょうもないように見えて、深いのである。 「……や、影月、こいつも去年はお前と同じくらいだったから安心しろ。えーと、じゃ、とりあえずもちっと小さい紙にこれ、書き写すかなー」1日もかなり高く昇《のぼ》った頃、ようやくすべてを書き終えた春姫はよろよろと床《ゆか》にくずおれ、半ば気絶するように眠《ねむ》った。  静蘭はその華菅《きやしゃ》で軽い身体《からだ》を抱《だ》き上げながら、ほとほと感心した。 「……まったく、茶克抱よりもずっと頼《たよ》りになる少女だな」 「女の子ほいざってとき、野郎《やろう》なんかよりよっぽど肝《きも》が据《す》わって強いよなぁ」  燕青のしみじみとした言葉に、その場の全員が沈黙をもって肯定《こうてい》したのだった。       ・態容態態 (ー秀麗殿《ビの》、秀麗殿であるな)  いきなりどこかからそう聞こえたときには、さすがの秀麗も飛び上がった。  午《ひる》すぎのこと。とりあえず離《はな》れを見て回ろうと回廊《かいろう》を歩いていたところで、少年らしき声に呼び止められた。だが肝心《かんじん》の声の主の姿はどこにもない。そもそも声は妙に方向を特定《・》させない|響《ひび》きをもっていて、どこから聞こえてくるのかも判然としないのだ。 (……でもこの声、どこかで……?) (いつぞやは我ら�茶州の禿鷹″が大変世話になった。我が|唯一《ゆいいつ》の舎弟《しやてい》である曜春の命を助けて頂いたことは感謝にたえぬ)秀麗は寸前で出しそうになった声を喉《のど》に押し込んだ。   −思いだした! あの猛暑《も’フし▼よ》のなか、よりによって全身黒ずくめでふらふらしていたむちゃくちゃおバカな子供たちだ。しかもなぜか秘中の秘である宮城宝物庫の|鍵《かぎ》までもっており、成  り行きで通りすがりの親切な超絶《ちょうぜつ》美形のお宅訪問をしたこともあり、たった一度の出会いとはいえ多分一生忘れないであろう印象的すぎる二人組だ。 (な、なんでここに? 待って、確かあや一人、燕青と|一緒《いっしょ》に茶州に帰ったって……)  秀麗はハッと表情を取り繕《つくろ》うと、行き交《か》う仕女たちに気づかれないよう、すまし顔で再び歩き出した。すると、声もつかず離れずの|距離《きょり 》を保ったままくっついてきた。 (そのご恩返しという意味もこめて、|微力《びりょく》ながらお助け申す。浪《ろう》燕青より、文使いのお役目をつかまつった。早速《さつそく》文を預かっている。それがしのいうとおりに歩いて頂けるか)秀麗が言われたとおりに歩き、ある場所で止まり、指示どおりに両手を突《つ》き出すと、どこかから小ぶりの巻物が降ってきて、見事に両手にちょこんとおさまっていたのだった。 「…………」  とりあえず巻書をほどいて−すぐに秀麗は庫《きびす》を返した。 「仕女のお仕着せ、ひとそろいちょうだい」  見取り図を受けとった秀麗は即座《そくぎ》に朔陶のところに行き、堂々とそう言った。  朔陶はくすくすと笑いながらも何も訊かず、 「いいよ」とすぐに用意してくれた。 「ついでに、私の髪《かみ》もくくっていってほしいな、かわいい仕女さん」  秀麗は無言で朔抱のふわふわした髪をひっつかむと、がLがLと椀《くしけず》り、えいやっとくくり、十呼吸後には母屋《おもや》に行くべくすっ飛んで行った。  朔洵は乱暴な仕草にも終始笑ったままで秀麗を見送ると、久しぶりの感触《かんしょく》を味わうかのよう  に肩にまとまって流れるひとふさを杭《す》き、そっと撫《な》でつけたのだった。  一方、秀寮はすぐさま見事な茶家の使用人に変身を遂《と》げた。侍女《lせレじょ》仕事は秀麗の十八番だ。離れの仕女たちの立ち居振《ふ》る舞《ま》いで茶家の特徴をつかむと、すぐさま動きをまねた。作法は家によって細かく規定されていることが多いのだが、基本は変わらないのでコツさえつかめば大概《たいがい》なんとかなる。  邸《やしき》の広さにはさすがに辟易《へきえき》したが、一時は天下の後宮、一時は天下の外朝を駆け回った秀麗である。すぐに慣れた上に見取り図だけでおおよその間取りは見当がついた。あとは家令や給《きゅう》仕頭《じがしら》に見つからないように気をつけるだけだ。家政を|司《つかさど》る彼らはたとえどれほどの人数が働いていようとも、きっちり全員の顔と名を覚えている。秀麗はできる限り見取り図を頭に叩きこむと、素知らぬ顔で歩き回った。  しかし−。 「……なーんか、やーな感じなのよねぇ」  母屋を見た瞬間か《しゅんかん》ら、なんだか妙に首筋がちりちりするような、いわくいいがたい感覚が背         ま筋を這《lょ■》いのぼってきていた。 (……獣《けもの》も虫も、ここにはおらん)  ついてきた翔琳の呟きで、秀麗もようやくその異常事態に気づいた。  そうだ。昨夜、二胡《にこ》を弾《ひ》いていたときは何かが変だと思ったのだが、原因がわからなかった。  けれど今ならわかる。この中秋の夜、二胡などよりもよほど美しい自然の歌がー虫の声がり  んりんと響き渡《わた》るはずなのに……何も聞こえなかったのだ。静かすぎるほど静かな夜だった。  秀麗は悪寒《おかん》を覚えた。ありえない。明らかにここはどこかがおかしかった。 「……ちょっとこれは、気合い入れなくっちゃならないかも」  そうして秀麗の大捜索《鼻ゝゝつさく》が始まった。のであるが1。   ー数日後、室《へや》で翔琳から渡された見取り図に印をつけながら、秀麗は顔を引きつらせた。 「……なんなのこのあやしさ大|爆発《ばくはつ》は……」  茶家当主選定式も、もう目前に|迫《せま》っていた。もちろん、州牧《しゅうぼく》着任式もだ。 「克洵さんの居場所も、英姫《えいき》さんの居場所も、誰《だれ》も何も言わないし。そのくせ間取りにおかしいところ多すぎだし」見取り図は朱墨で印をつけすぎたせいですでに真っ赤だ。そこは、内部の室まわりと屋根の広さ、外壁《がいへき》周りにずいぶん差が出ているところだった。これは猿《さる》顔負けの機動力をもつ翔琳があちこち飛び回って発見したお手柄《てがら》なのだが、それにしたってこの隠《かく》し室の多きはなんだ。 「……いちばんあやしいのがここの地下の異常な広さよねー」  ほとんど母屋の中心に位置する場所を、筆のうしろでコソと叩《たた》く。この空洞《くうどう》部分を発見したのも翔琳だった。足の裏の感じがおかしいところがある、と秀麗にもの申したのだ。 『足の裏に妙な感じで音がはねかえってくる。これは獣をつかまえるために落とし穴をつくって確認《かくにん》のため感触を確かめたときと同じだ。下にぽっかりあいてるぞ、あそこ』 「しかも『足音の酢《ま》ね返り方からして、広く深いが何だかモノがごちゃごちゃ置いてあるようだ。それに微量《びりょう》の熱源を察知したぞ』ですからね。あやしいっていうか、もうこれで一人見つけた感じだけど……翔琳くんじゃなきゃ絶対見つけられないところよねここ。いったいどうやって入ったのかしら……」見取り図に記された室は、茶仲障《ちゅうしょう》の私室。その真下に大空洞があるというのだ。  こんこん、と筆の尻《しり》でそこをつつきながら、秀麗は真顔になった。 「……いるとしたら、克洵さんより、多分英姫さん、かしら」  色々話を聞いてわかったことだが、克陶は本当に誰からも相手にされていない。仕女仕男からさえ|馬鹿《ばか》にされていた。ということは、主人格茶仲障の克洵に対する扱《あつか》い、妊《おとし》めようはそれを遥《はる》かにしのぐと考えていい。仕える者の態度で、主人の姿は見えてくるものだ。  対して標《ひよう》英姫に関しては誰もが一様に口を閉《と》ざす。変《ま》めもしないが、けなしもしない。どちらかというと畏怖《いふ》の感情に近い。もともとこの邸の女主人とはいえ、仲障が乗りこんできた時点で、彼女に近しい仕女仕男はすべて追い払《はら》われたはずだ。それでも、まだ彼女の|影響《えいきょう》力はずいぶん残っている。燕青たちの話を考え併《あわ》せても、茶仲障は克泡とは比較《ひかく》にならないほど彼女を危険視しているのはまず|間違《ま ちが》いない。  人の文《ふみ》さえのぞくほど構疑心《さいぎしん》が強いのなら、危険視する人物は必ず目につくところに置いておかねは気が気でないはず。多分、私室の下の空洞にいるのは繚英姫。 「……でも、私室の下、ねぇ」  なんだか、|妙《みょう》な感覚を覚える。私的な場所に近すぎる。まるで、仲障の英姫に対する複雑な−ともすれば特別な感情さえ垣間見《かいまみ》えてぐるような気さえする。 「……まさかね。それに、問題なのは克洵さんのほうだわ」  翔琳を介《かい》して毎日静蘭たちと文のやりとりをしているが、繹英姫の居場所に見当をつけたときに燕青から返ってきたのが次のものだった。 『英姫はーちゃんは超強《ちょうつえ》えーから|大丈夫《だいじょうぶ》。心配なのは克洵のほう』  万一のことを考えれば気が焦《あせ》るが……おそらく、仲障には克抱に殺すほどの執着《しゅうちゃく》はない、と思う。うろちょろされて|邪魔《じゃま 》ならば、当主につくまでどこかに閉じこめておけばいい。それに仲障の 「血」の存続に対する妄執《もうしゅう》を見れば、いかに利用価値の低い孫でも万一の場合に備えて生かしておくような気がする。 「とすれば、配膳《はいぜん》の流れをおさえればいいんだけど……どこにも余剰《よじょう》分が流れこむような不自然なところがないのよねぇ」庖厨所《だいどころ》を張っても不明瞭な配膳先や妙に量の多い盆というのもない。健脚《けんきやく》を生かして毎日翔琳とあっちこっち歩き回り、隠し室探索《たんさく》ももうほとんど制覇《せいは》する勢いだ。残るは−。 「……うーん、でもこの見取り図……なんか違和感《いわかん》があるのよね」  特に庭院《にわ》を歩き回っているときに、この見取り図と相違《そうい》を感じる。どこかにぽっかりと空自地帯があるような気がする。 「賃仕事してた大きなお邸と比べても、なんか……足りないところがあるっていうか」  仮にも彩《さい》七家の本邸《ほんてい》である。現在の秀麗の知識で比較対照するなら宮城しかない。  一つずつ覚えているところを対応していき−ふっと気づいた。 「……あれ、そっか。足りないところってもしかして……」  そのとき、どこかから翔琳の声が落ちてきた。 (秀麗殿《どの》、庭院の外れに、何やら見取り図にない小さな宮があったぞ) 「……ありがとお頭。《かしら》とりあえず、ちょっと訊《き》いてみるわね」 (なにやら、あんまり長居したくない場所だ) 「そうね。もし思った通りの場所なら、ちょっと|普通《ふ つう》とは違うところだからそう思うかも」 「ああ、そうだよ。君の予想通りだ」  その晩、いつものようにやってきた朔泡に問いただしてみると、彼はあっさりと認めた。 「別に、そう珍し《めずら》くもないと思うけれど」 「……そうね。ちょっと大きいお邸なら、普通にもってたりするし」  でも……秀麗もよくわからないが、妙な違和感があるのだ。 (あとでちゃんと調べてみればすむことよね。それよりも) 「……ねぇ、ちょっとあやしすぎるんじゃないのこの邸」  秀麗はいつものように二胡を弾いてやりながら、目の前で優美な獣のようにくつろいでいる  男にズパリ言った。  朔泡は酒杯《しゅはい》を傾け《かたむ》ながら、くすくすと笑った。 「何を今さら」 「笑いごとじゃないわよ。何ここの隠し室の多さ! やましさ大爆発じゃない!」  しかし朔陶はますます笑うだけだった。 「おや、頑張《がんば》っているみたいだね。ここの隠し室は見つけがいがあるだろう〜」 「……やましいってことを認めるワケね」 「今さら、と言ったじゃないか。……ああ、でも一つだけやましくないものがある」 「はぁ? よくもヌケヌケとそんなことがいえるわね。何、」  二胡の手を止めた次の瞬間には、秀麗は朔掬の下に組み敷《し》かれていた。彼の髪《かみ》は毎日秀麗が適当にくくってやっていたので、頬《ほお》の上に落ちてきた髪は、そこから逃《のが》れたものだけだ。 「私たちの間は、まだまったくやましくないよ。それとも、これからやましくしようか?」  耳たぶに触《ふ》れるほどの近さで噴《ききや》かれた声の甘い熱が、秀麗の頬まで染めあげる。つ、と長い指が首筋を伝う感触《かんしょく》に、秀麗の肌《はだ》がぞくりと粟《あわ》だった。 「け、け、結構ですっ。ひとつくらいやましくないのがあるべきだあっ」  声が裏返っているのを自覚しつつ、秀麗はかろうじてそれだけわめいた。少しでも動けば寄せられた唇《くちびる》に触れそうで、動くに動けない。 「……残念。まだ、おあずけか」  けれど、そう残念でもなさそうな|吐息《と いき》を残して離《はな》れる|間際《ま ぎわ》−まるでほんの偶然《ぐうぜん》というように冷たい唇が耳たぶをかすめていった。  ぎょっと耳を押さえると、朔泡が小さく笑っていた。 (あ、遊ばれてる……)  ここで怒《おこ》るともっと喜ばせることになると思ったので、秀寮はぶるぶる震《ふる》えることしかできなかった。真っ赤になっているだろう今の自分が情けない。 (胡蝶妓《こちょうねえ》さんみたいにさらっと受け流せるまでにはどれくらいかかるのかしら……)  なんだか果てしなく無理な気がした。 「そうだ、祖父がね、君と会うそうだよ」 「は〜はあ!?今さら!?」 「ほら、もう少ししたら、私たちの婚姻《こんいん》の儀《ぎ》もあるわけだし」                                                                                                                                              ヽ一  秀麗は気を落ち着けようとお茶を掩《h_V》れかけていたのだが、思わず手にしていた茶壺をひっくり返しそうになった。 「こ、こここ婚姻て!」 「婚礼衣装《いしょう》も嫁入《よめい》り道具も心配しなくて大丈夫だから」 「ちょっと何勝手に詰進めてんのよ  −   つ‖‥」  秀麗は猛然《もうぜん》と朔抱に突進《とっしん》すると、その胸ぐらをつかんでガクガクと揺《ゆ》さぶった。 「あ、あなた形態には興味ないって言ってたじゃないの!」 「だから、私は別にどっちでも構わないんだよ。形態にこだわるのはお祖父様《じいきま》のほうだから、一人で頑張ってるわけだ。嫌《いや》なら明日、本人に直接そう伝えないと」 「わ、わかったわよ。言ってやるわよ。ビシッとね!」こぼした茶葉をかき集める秀麗に、朔抱は甘えるように尋《たず》ねた。 「ねえ、まだ私に甘露茶《かんろちや》を掩れてくれる気にはならない?」  毎日のように噴かれる甘い声音に、秀麗もいつもと同じ答えを返した。 「なーりーまーせーんt。今日は『彼山銀針《かぎんぎんしん》』です。まったく、こんな超高級茶葉を平然と備えつけてるなんて! むしろ売りに行きたいくらいだわ」かなり本気でぼやきつつ、男らしく茶っ葉をすくいあげる秀麗を、朔洵はじっと見つめた。 「……君と結婚《けっこん》か」  ぅしろをむいていた秀麗には、そのとき彼がどんな表情をしていたのか見えなかった。 「それもいいかもしれない。きっととても楽しい気がするよ」  そしてあまりに小さな呟きが、秀麗の耳に届くこともまたなかった。       。帝。希。  その室《へや》は、焚きすぎの香《こう》でむせかえるようだった。  秀麗は好々爺然《こうこうやぜん》とした茶太保《たいほ》しか知らない。だからだろうか、後宮で起きたあの事件の真相  を知らされたあとも、彼を恨《らごら》む気持ちはまるでわいてこなかった。それどころか、不思議なくらい他人事のように思えた。  多分、あのかたが当然のように宥《しょう》太師と宋太博《そうたいふ》の隣《となり》に並んでいたからだと思う。  ごく自然に、あの二人の偉大《いだい》なる老師のそばにいらっしゃった。何一つ見劣《みおと》りすることなくとけこみ、たとえ三師の一人と|紹介《しょうかい》されなくても秀寮は自然と頭《こうベ》を垂れたろう。  太保の座はあのときから空位のまま。それに誰《だれ》一人異を唱えることもない。これからも長く空位のままだろう。かの老師のごとく零・宋両老師と並ぶにふさわしき人物が現れない限り。  |穏《おだ》やかな物腰《ものごし》と|微笑《びしょう》のなかに、零太師と宋太博と並べて称《たた》えられるにふさわしい力が確かにあった。それは決して|間違《ま ちが》ってはいないのだと、秀麗は今でも信じている。 (けれど−)                                                                                                                                                          lT、ナ1  けれど、いま目の前にいる老人は本当にあの茶太保の実の弟なのだろうか。目だけを桐々《11V・ょ_llV》と輝《かがや》かせ、|値踏《ねぶ》みをするかのように秀麗を倣然《ごうぜん》と見下ろし、冷たく唇を引き結んでちらりとも笑まぬこの骨の髄《ずい》まで|凍《こお》りついているかのような老人は−ただの一つもあの茶太保と相通じるものがない。  秀寮はぐっと胸を反らし、この氷のような老人と真っ向から向かい合った。  この室《へや》には、秀麗と仲障老人の二人きりだった。 「……小娘《こむすめ》が。紅出を誇《こうしゅつほこ》って侮《あなど》るか」  長い沈黙《ちんもく》ののち、茶仲障はそう|呟《つぶや》いた。  秀麗には、投げつけられた言葉がとっさに理解できなかった。  秀麗が頭も下げず、言葉も発しなかったのは藍家に次ぐ名門の紅家出身だからではない。茶州を我がものと思いこみ、何をしても許されるというその思い上がり。�殺刃賊《さつじんぞく》″などを私兵にし、茶州を荒《あ》らし回るのを黙認《もくにん》し、|目障《め ざわ》りな州牧が赴任《しゅうぼくふにん》してきたなら手段を選ばず|襲《おそ》いかかり、民草《たみくさ》への|被害《ひ がい》など塵《ちり》とも思わない。茶州の州牧として、玉命を受けた官吏《かんり》として、そして一個人として、たとえ自分より遥《はる》かに敬うべき年輪を重ねていてもそのような相手に下げるべき頭などないと思ったからだ。  そこに紅家の介在《かいぎい》する余地は一片《いつベん》もない。 「だが、確かに価値ある血なのは認めよう。l——我が当主就任式と相伴っ《あいともな》てお前と我が長孫《ちょうそん》朔抱との婚姻を執《と》り行う。それまで大人しく待っていることだ」それだけいうと、もはや用済みとばかりに目を閉じる。当たり前のようにかつての長孫である草油《そうじゅん》の存在を消去した。自分の名さえ言わない。秀麗の名も意思を訊くこともしない。  この老人にとって秀麗は 「紅家直系の娘」《むすめ》という以外の価値は皆無《かいむ》なのだ。州牧でさえない。  ましてやまともに話をすべき一個人とも思っていない。 (……この…人は)  怒《いか》りをそうと感じる前に何かが突《つ》き抜《ぬ》けたのかもしれない。秀麗はひどく静かに告げた。 「−茶朔洵殿との婚姻は、お断りいたします」  微《かす》かに瞼が《まぶた》動いたが、それだけだった。目を閉じたまま、仲障はうっとうしげに息を吐《ま》いた。 「……愚《おろ》かなことはいわぬほうが身のためぞ」 「あなたのお孫さんと結婚することはありえません」 「鄭悠舜《ていゆうしゅん》の命と秤《はかり》にかけるか」  投げやりに放りだされた言葉を理解した瞬間、《しゅんかん》秀唐の瞳が《ひとみ》険しくきらめいた。 「……どういうことですか」 「確かに、あの堅牢《けんろーワ》な塔《とう》のてっぺんから鄭悠舜を引きずりだすことは不可能だった。だがな、塔ごと蒸《む》し焼きにするのは簡単だ」思わず息を呑《の》んだ秀器に、仲障は淡々《たんたん》とたたみかけた。 「早々に州牧なぞやめて、朔抱の嫁《よめ》にでもなって家で贅沢《ぜいたく》をしていたほうが何かと楽だろうて。朔抱が気に入らぬなら他《ほか》に男をつくればよい。愚かにも自ら苦労を背負い込むことはなかろう。                  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ                        ヽ  ヽ  ヽ  たとえば境噂が着任式当日に無頼の輩によって火の海になるやもしれぬぞ。もしくは、何かと   ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ      ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ騒がしい各地方で、一斉に暴徒が活発化して太守たちがそろって駆け戻ることになるやもしれぬ《ヽ》な《ヽ》。そんなときに国試及第したての女子供に何ができる?」はったりかもしれない。けれど違うかもしれない。各地で暴動めいた小競《こぜ》り合いが起きているのは柴凍《さいりん》からの書状にもしたためられていた。もしかしたら茶仲障が事前にこの日と定めて金をばらまき、破落戸《ごろつき》をあおった可能性はある。各地の|騒動《そうどう》のせいで境埴警護の州武官は散らされ、手薄《てうす》となった|隙間《すきま 》に茶家の私兵がのさばっている。何かと気ぜわしい着任式の日に乗じて、あちこちで騒ぎを起こすことは茶家になら可能な気がした。  少なくとも鄭悠舜に関しては、なんの下準備がなくても実行可能だ。塔ごと火をつけて蒸し焼きにすることなどこの老人ならたやすくやり遂《と》げる。そして足が不自由だという悠舜が自力で|脱出《だっしゅつ》する可能性はきわめて低い。  秀麗が何を答えるまもなく、仲障は最後にさらなる、そして最大の劇薬を簡単になげた。 「全商連を味方につけたと思って、思い上がっていると痛い目を見るぞ。生粋《きつすい》の商人だからこそ、簡単に変節する。益があれば誰《だれ》にでもつく。柴彰は《さいしょう》そういってはおらなんだか?」山!?! ■下腹を、重い鈍器《どんき》で思いきり殴《なぐ》られたような気がした。 「あいにくと、柴彰とはそなたらが|接触《せっしょく》する前から通じておってな。色々と情報をもらっておるのよ。面憎《つらにく》い面もあるが、確かに全商連の品の質は確かゆえ、新しい当主指輪もつくらせておる。色《ヽ》々《ヽ》と《ヽ》別《ヽ》方《ヽ》面《ヽ》で《ヽ》の《ヽ》仕《ヽ》事《ヽ》が《ヽ》増《ヽ》え《ヽ》て《ヽ》、完成はかなり延びてしまったようだがな」その低く重たげな声に勝ち誇ったような色は何一つなかった。むしろ言うのも|面倒《めんどう》そうに|眉《まゆ》がひそみ、それが秀麗に真実を感じさせた。  そう——−柴彰は最初から言っていたではないか。 『 「八割の力を以《もつ》て」協力申し上げます』  ……残りの二割を茶家に割《さ》いていても、なんらおかしくはない。  手足の先から冷たくなっていくような気がした。ともすればうつむきそうになる顔を必死であげつづけ、秀麗は頭を全速で回転させた。  今まで得たあらゆる情報をかきあつめ、必死でえりわけ、|分析《ぶんせき》した。   −ここが、正念場だった。 「もうわかったろう。おとなしく婚礼の日取りを待て」  迷っても、ぐらついても、秀麗の返せる言葉はただ一つしかない。  秀麗は青ざめながら、はっきりといいきった。 「いいえ。お断り申し上げます」   −初めて、茶仲障の鷲《わし》のような目が片眼《かため》だけ開いた。 「……なんだと?」 「お断り申し上げる、と申しました」 「我《が》を張り、すべてが火中に散じてもよいのだな」 「いいえ」   −何があっても鄭悠舜は|大丈夫《だいじょうぶ》と、燕青は言ったのだ。   −すべてを、あるがままに、次代の私たちに渡《わた》そうと、打てる手はすべて打ってきたと言ったのだ。それが前州牧としてできる、自分たちの最後の仕事だからと。 『何があっても準備|万端《ばんたん》で着任式の用意して待ってるさ』  信じないで、どうする。  十年、荒れに荒れていたという茶州を見事に治めてきた。あらゆる点で遥かに凌駕《りょうが》し、たちまきり、秀麗など比較《ひかく》にもならない。その二人を信じることができないで、これからどうやっ  て州牧としてやっていける。一度疑ったら、もう二度と信じ切ることなどできはしない。 『信じてやって〜』  ええ、燕青。ここで疑ったら女がすたるわ。  十年間茶州を支えつづけてきた二人の名官吏の言葉を、秀麗は信じるのだ。 「火中に散じるものなど、何一つありませんので、重ねてお断り申し上げます」  ついに、老人の両眼がひらかれた。 「……では、赴任期限が過ぎるまで、この邸に留《やしきとど》まってもらうことにしよう。さすればおのずと州牧は解任。そなたに預けられたという州牧印も効力を失う」秀麗はあざやかに笑って見せた。 「結構です。私はここへくる前に、もう一人の州牧・杜《と》影月に、万一の場合は全権を移譲《いじょう》する旨《むね》を正式な書状にしたため、州牧印とともに預けております。州牧印はもちろん、浪燕青と勅《ちよく》宣《せん》武官の署名もいただき、いざというときはそれを陛下の御許《おんもと》にお届けするだけです。このまま私の赴任期限が過ぎたとしても、州牧が一人減るだけで何も変わりません」カッと仲障の両目が見開かれた。 「そなたは、州牧として我《わ》が茶家新当主を祝う席に侍《じ》すためにきたのだろう」 「いいえ。私は一個人として、二つの捜《さが》しものをLにきただけです。もちろん、州牧は臨席しますとも。杜州牧が、補佐《ほさ》の浪燕青を引き連れて、当日堂々と乗り込みに参ります」 「−よくぞほざいた小娘!」  秀麗は下っ腹に力をこめた。ここで退《ひ》くわけにはいかない。負けるわけにはいかない。  たとえすべての権利を|放棄《ほうき》しても、官吏としての誇りだけは手放さない。 「ではその思い上がりに敬意を表し、すべてを一日繰《く》り上げてやろう。茶家当主選定式の当日に茶州で噴《ふ》き上がった火の手におのが言葉を|後悔《こうかい》するがよいわ!」びりびりと空気が震《ふる》えるほどの大喝《だいかつ》を全身で受けた後、秀麗は唇を噛《くちびるか》み、鹿《きびす》を返した。 「……あなたは、何もかも壊すことしかしないのね」  茶州を、そしてそこに住まう民を。守れるだけの力を持ちながら、なんという愚かな。 「−一度信じたものに、後悔することはいたしません」  静かにそう言い残して、秀麗は室を出て行った。    やゝ。 「あ《か》あさll——ノ翔琳くんいる!?いるわよね!?」  室《へや》を出た瞬間、秀麗は猛然と回廊《もうぜんかいろう》を走りはじめた。 (|素晴《すば》らしくカツコよかったぞ秀麗殿《どの》! ぜひお師匠《ししょう》と呼ばせ……) 「ちょっと今の速攻《そつこ、つ》で燕青に伝えてちょーだいっ。ヤパすぎじゃないのー!」  T……しゅ、秀貫殿……) 「なによっ。別にカッコつけたわけじゃないのよ。本心よ。信じてるわ。でもでも万一の場合があったらビーすんの! やれること全部やっとくのって絶対必要なんだから。克泡さんがいる隠《かく》し室にも見当ついたし、私は一人で大丈夫。だから今すぐ行って!」 (……いかん) 「いかんですって!?なんでよっ」 (『ごめんもう手|遅《おく》れ』と伝えてくれと言われておる)  秀麗は大きく息を吸いこんだ。それを溜《た》めて|一拍《いっぱく》ののち。 「なぁんですってぇええええええっっ!?」       翰翁歯髄態  深い闇《やみ》のなかで、手の届かぬ光だけが一つきり燃える。  克泡の意識からはすでにその光も、父の姿も、消え失《■つ》せていた。もう光など必要なかった。  彼の意識はたった一つのことに集約されていた。   −ここから出たあと、どうやってすべてを終わらせよう……。  思うだけでは、今までと|一緒《いっしょ》だ。この、汚物《おぶつ》にまみれた座牢《ぎろう》には何一つない。ときおり放りこまれる食事も、すべて手づかみで食べられるものばかりだ。  何か、武器が必要だった。それも隠しもてるもの。殺される前に殺せるもの。  ふと、かしゃんという音とともに、銀色の火花が視界の隅《すみ》で弾《はじ》けた。   −それで、お前の思うとおりのことをなせるよ。  |優《やさ》しい優しい声が、克抱の耳に甘くすべりこむ。どこかで聞いたような声だった。  意識が、白濁《はくだく》する。けれど銀色の光が目が吸いつくようで、気づいたときには冷たいそれを手にとっていた。  短刀だった。武器を扱《あつか》い慣れていない身にも、これくらいの《ま》ガならなんとかなりそうだ。ぬらぬらと|輝《かがや》く銀のきらめきは、人の腕《うで》も紙のように簡単に|斬《き》れそうで。  ああ、これがほしかったのだと、克抱は笑った。自分のそれが父の笑い声に似ていることなど、もう意識の端《はし》にもかからない。  ここに放りこまれたときより、夜目がずいぶんときくようになったと、ぼんやり思う。今の自分の目はきっと……誰だったか……誰かのように、赤く光っているのではないかと思う。  打−お祖父様《じいさま》を、つれてきてあげる。  誘う声に、克抱は子供のように肯《うなず》いた。……なんて、優しいひとだろう。   −でもその前に、斬れ味を試してみないと。  克抱はそうか、とぼんやり肯いた。そうだ、とても締麗《されい》でも、もしかしたら役に立たないかもしれない。試してみないといけない。でも、な《ヽ》に《ヽ》で《ヽ》〜  −近くに、いるだろう? どこからか、甘い甘い鶴いが禦はじめる。ふっと、蒜炉け意識が獣配する。……この軒は、どこかで、喚《か》いだ|記憶《き おく》があるような気がした。どこかで……どこで……7  −ほら、君の近くに、うずくまるようにして、待っているよ。  ふっと、繋《つな》がりかけた記憶が|瞬《またた》く間に霧消《むしょう》した。  甘いのは匂いなのか、声なのかさえ、わからなくなる。  克抱はぼうと首を巡《めぐ》らせた。すると自分のすぐ近くに、きょ一ろりと、おどおどと、光る一対《いつつい》の目があった。そして妖《あや》しく光る銀の刃に目を落とす。   −お祖父様をつれてくる前に、ちゃんと確かめておくんだよ。  それきり声は消えて、甘い匂いだけが残った。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        ’  肯いたのは、反射的だったかもしれない。けれどその赤い目に誘われるように一歩踏《−J》みだしたのは——。  それきり、克泡の中で張りつめた糸が弾け飛び、すべては闇にのみこまれた。  光が明滅《めいめつ》するように、克泡の意識はいくつも切り替《か》わった。  誰《だれ》かと、闇のなかで激しくもみあった。  遠くの灯《あか》りと闇を隔《へだ》てていた格子《こうし》が、激しい音を立ててひらく。  あちこちに|一斉《いっせい》に火がついて。  息も絶え絶えな小さな悲鳴が、不思議と耳に残っている。  そして全身に熱いしぶきをあびて−むっとするような、鼻をつく、鉄臭《てつくき》い嫌《いや》なにおい。 「……お、まえー!」  祖父の、飛び出んばかりに見ひらかれた両眼は、まっすぐに自分を見据《みす》えていた。  腹に深々と突《つ》き刺《き》さった銀の刃を抜《ぬ》かれると、祖父の腹から赤いものが噴き出た。  視界が真っ赤に染まった。 「……の、ごときに−」  ずるり、と後ずさる祖父を、克抱は追わなかった。  そしてどれくらいの時が経《た》ったのか−  気がついたとき、克抱は血の海のなかで|呆然《ぼうぜん》と|膝《ひざ》をついていた。赤くねはつく液体に半分沈《しず》んだ銀の短刀が、きらきらとその刃先《はさき》を輝かせていた。  のろのろと両手を見ると、それはべったりと赤黒い斑《まだら》に染まって、指の先からやけにゆっくりと音を立てて、同じ色の雫が《しずく》落ちていった。視界の隅には、枯《か》れた木のようなものが転がっていて−見てはいけないと頭のどこかで警鐘が《けいしょう》鳴ったけれど、すでに遅《おそ》く、克抱の目はとっくにそれをとらえていた。  ほとんど裸《はだか》同然にすり釘れたぼろぼろの衣服。まるで百をとうに超《こ》えたかのような、かろうじて骨に皮が張りついているような身体《からだ》。真っ白に染まったーいいや、今は赤と白の斑に染まった、長いだけの髪《かみ》。胸からあふれて辺りを満たす血のあたたかさだけが、彼がついさっきまで生きていたのだと教える。   ー克陶の目から、涙が《なみだ》一筋こぼれ落ちた。 「ち…ち……うえ……」  一度だけ、飴《あめ》をくれたひと。  覚えている。愛している。愛していた。愛していた、のに。  自分、は−。  陶器《とうき》が粉々に砕《くだ》け散るように、世界のすべてが音を立てて|崩《くず》れ落ちる。  自分がどんな声を上げているのかさえ、克泡は気づかなかった。  こころがばらばらに切り裂《き》かれていく。かけがえのない想《おも》いも記憶ももろともに。  もう、それでもいいと、思った。  すべてを手放したら、すべてを忘れられる。楽になれる。もうそれでいい。それがいい。  ……最後に残ったカケラは、大切な少女の姿をしていた。  ほんの|僅《わず》かためらい、そしてそれさえも捨て去ろうとしたとき。 「克洵様−!」  カケラから抜け出してきた少女が、目の前に姿を現した。       ・前線歯根 「ああ、ようやく帰ってきましたね」  由官吏《ゆかんり》は境壇の城壁《これんじようへき》門を見留《みとど》め、そっと軒《くるま》から顔を覗《のぞ》かせた。彼の前に座る柴太守《たいしゅ》はまるで  |息子《むすこ 》を叱《しか》るように眉根《まゆね》を寄せると、小声でたしなめた。 「むやみにお顔を出されては危険です。おやめください」 「あ、ええ、つい……」  おとなしく首を引っ込めると、由官吏はたった今見た城壁門前を思い返した。固く封鎖《ふうき》された城門の前には天幕一つなく、ほとんど人馬もまばらな閑散《かんさん》とした有様だった。当然州牧《しゅうぼく》着任式に臨席するべく封鎖解除を待つ各太守たちの御料軒《ごりようぐるま》もただの一両も《りょう》ない。 「墟埴全面封鎖解除及《およ》び新州牧着任式を二日後に控《ひか》えて……」  渋《しぶ》い顔をした柴太守に向けて、由官吏は優しい微笑《げしょう》をこぼした。 「どうやらあなたが、臨《ヽ》席《ヽ》す《ヽ》る《ヽ》全《ヽ》太《ヽ》守《ヽ》の《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》で《ヽ》最《ヽ》後《ヽ》に《ヽ》大《ヽ》都《ヽ》を《ヽ》果《ヽ》た《ヽ》す《ヽ》太《ヽ》守《ヽ》になるようですね」 「末代までの恥《はじ》でございます。先祖に顔向けできませぬ」 「いいえ、末永く柴家の菅《ほまれ》として語り継《つ》いでください。本当にあなたは良いご息女とご子息をもたれましたね。すべてはあのお二人のご協力があればこそ。心より感謝申し上げます」 「とんでもございません。好き勝手しているのが今回はたまたま良く作用しただけでございますよ。まったく親の気も知らずに……」そっぽを向く柴太守に、由官吏はくすくすと笑った。 「さあ、明日から、本当の正念場ですよ。きちんと新州牧お二人をお迎《むか》えするべく、全力でとりかからなくては。香鈴殿《こうりんどの》も、曜春殿も、よろしくお願いいたします」由官吏の隣《となり》にやや|緊張《きんちょう》した面《おも》もちで座っていた香鈴は、その言葉にしっかりと肯《うなず》いた。 「なんなりとお申しつけくださいませ」  軒の脇《くるまわき》を馬にぴったりついて走っていた曜春も、元気良くハキハキと答えた。 「お任せござれ! 高い塔《とう》の|天辺《てっぺん》におられる鄭補佐《はさ》をお救い申し上げる次第《しだい》なのですよね?」 「ええ」彼は目を細めて、境埴城郭の遥《じょうかくはる》か向こうを見つめた。そこは最凶悪犯《さいきようあくはん》用牢獄塔《ろ・ユJくとう》が建つ場所。 「一刻も早く、鄭補佐には州府城に戻《もど》ってもらわなくては」  1そして、今ごろ必死に頑張《がんぼ》っているはずの、二人の州牧の手助けを。  問■1.鼎一−酢押叫胤l日日ー華恩l一‥lll‥図日目一日麺茶家《さけ》当主選定式当日一。 『私が行きます』  トメもバネもハライも勇ましく、春姫《しゅんき》はただそれだけをズパリ二言書ききった。  か細いお姫様の力強い宣言に、静蘭《せいらん》と影月《えいげつ》は仰天し《ぎようてん》た。  当然おとなしく待っていてくれるものと決めてかかっていたのだ。凄然《りんぜん》とした横顔も、泰然《たいぜん》とした仕草も、どうしても 「静」の印象に結びついてしまうから。  しかし考えてみれば、想《おも》い人を助けるために急峻な峯慮山《きゅうしゅんほうろさん》をお頭《かしら》の背に乗って駆《か》け下りてきた少女である。度胸も行動力もちゃんとある。とはいえ、なんの心得《こころえ》もないのもわかっている。  心意気は高く買うがちょっとそれはどうか、と静蘭は難色を示した。−しかし。 「よしわかった。じゃ、|一緒《いっしょ》に行こうぜ」  まるで物見遊山《ものみゆさん》に行くような調子だった。だが今回ばかりは状況が違う。静蘭の顔を見た燕《えん》青《せい》はああてて両手を振《ふ》った。 「怒《おこ》んなよ。これは俺じゃなくてさ、英姫《えいき》はーちゃんの詰《たの》みなんだって」 「繚《ひよう》英姫殿のエ         かな        むぼう 「そう。春姫がやりたいと言いだしたときには叶えてやってくれって。決して無謀でも情に流されて言ってるわけではないからってさ」 「とはいっても……」 「まあな。お前の心配ももっともだよ。−なあ春姫」燕青は|椅子《いす》に座ったままの春姫と、まっすぐに目線をあわせた。 「足手まといにならない自信が、あるんだな? あんまり守ってやれないかもしれないぞ」  春姫は真剣《しんけん》な表情で、コクリと首を縦に振った。  |一拍《いっぱく》のち、燕青はその小さな頭をぽんと叩《たた》いた。 「わかった。自分の身内と、克泡《こくじゅん》のことだもんな。確かにお前をのけものにするのほお門違《かどちが》いだ。よし行こうぜ。影月・俺組と静蘭|寂《さび》しい単身赴任《ふにん》組とどっちにつく?」寂しい単身赴任組という言葉に、静蘭が嫌《いや》な顔をすると、春姫がその腕《うで》を軽く叩いた。  その意味を悟《さと》って、静蘭はぎょっとする。 「私とですか!?いやでも私は−ま、まさかあのこめっきバッタが寂しい単身赴任とかいったせいじゃ」ふるふると否定される。春姫は紙にさらさらと何ごとか書き記した。 『|途中《とちゅう》までで結構です。あなたのお役日の|邪魔《じゃま 》になるつもりはありません。あとは私一人で、克洵様とお祖母様《ぼあさま》、そして我《わ》が茶家を助けに参ります』         香車魯翁態 「今日もとってもかわいいね、私のお姫様。今までどこに行ってたんだい?」  その日も、朔泡《さくじゅん》はいつものようにゆったりと微笑んで酒杯《しゅはい》を傾け《かたむ》ていた。  当主選定及び就任の儀《ぎ》は今宵《こよい》の晩餐会《ぼんさんかい》で行われる。今はもう陽《ひ》が沈む頃《ころ》だ。  秀寮《しゅうれい》は呆れた。なぜあちこち駆けずり回ったり、そわそわと焦《あせ》ったりしているのが自分のほうなのか。 「……まったく、なんなのあなたは! 今晩は茶家の新当主選定式でしょうに」 「ああ、そのようだね」 「そ、そのようって……見たところなんの支度《したく》もしてないみたいだけど」 「うん? 出る気ないから」  興味なさげな朔洵に、秀寮は深々と息を吐《ま》いた。 「……ほんっっと何もかもにやる気がない男わあなたは……」  もういっそ|天晴《あっぱ》れなくらいだ。 「私には、君と過ごせる最後の日、ということのほうがずっと大切なんだよ」  朔抱の言葉は、どこまでが本気でどこからが冗談な《じょうだん》のか判別に困る。  軽く受け流すこともできたが、秀麗は|溜息《ためいき》をついてそれに応《こた》えた。 「……そうね。そのとおりだわ。約束は覚えている?」 「もちろん。�菅″《つぼみ》もちゃんと返すよ。そうだな−君も何かと忙《いそが》しいだろうから、全部片づいたと思ったら、おいで」 「往生際が《おうじようぎわ》悪いわね。いまくれたって全然構わないのよ。むしろとっとと出しなさいよ」 「そんな、夢のない」朔洵は自分で自分の言葉に|驚《おどろ》いたように僅かに目を畦《みは》った。 「? どうしたのよ」 「……いや。ふふ、なんでもないよ。じゃ、やることやったらとりにおいで」 「おいでってどこによ」 「私がいると思うところに。ここにいるかもしれないし、別なところにいるかもしれない」 「は!?難癖《なんくせ》つけて返さないとかいうんだったら承知しないわよ」  なぞなぞ以下のいい加減な言葉に、秀麗は思わずむっとする。 「ひどいな。約束は守るよ。どうしてもわからなかったら、私から返しに行ってあげるから」 「あら、少しは生産性がでてきたのね。あなたがくるのを待ってたほうがいいかしら」 「きてくれないと、うっかり池に落としてしまうかもしれないな」  朔泡はその椅麗《されい》な顔に魅惑《みわく》的な笑《え》みを|浮《う》かべる。 「−1行くわよっ、ちゃんときがLに行けばいいんでしょう。まったく遊び好きなんだから。絶対行くから、遅《おそ》くなってもうっかり落としたりしないでよ。……ていうかあなたねぇ、きっ  きから何そんなにお酒カバカバ飲んでるのよ」 「だって君がなかなか帰ってこないから。髪《かみ》も結《ゆ》ってくれないからそのままだし」 「全然理由になってません。しかももう私はあなたの侍女《じじょ》じゃないのよ。そういうのは他《ほか》の人に頼《たの》めばいいでしょう」 「君以外はいやだ」朔抱は愛《いとお》しむように秀麗の手をとると、またくすくすと笑った。                                                                                             ヽ一 「じゃ、髪を結って、お茶を掩《lY》れてくれる?」  これが最後だし、と半分あきらめの境地に達した秀麗は、いつもより丁寧に椀《ていねいくしけず》って、やわらかく手ざわりのよい巻き毛をされいに一つにまとめた。  朔洵は|珍《めずら》しく軽口も叩かず、うっとりと長い睫毛《まつげ》を伏《ふ》せて、杭られる感触《かんしょく》を楽しむかのように静かにしている。秀麗はなにやら気位の高い猫《ねこ》を手なずけたような気分になった。と同時に少し心配になる。 「……なんだか、静かね。もしかして飲みすぎて気分が悪いの?」  秀贋が知っている限り、朔陶の酔《よ》ったところを見たことがない。どころか、いくら酒を過ごしても顔色一つ変わらない。今も見た目に変化はないが、実は酔っているのかもしれない。  形のよい白い額に手を当てようとすると、触《ふ》れる前にからめとられ、指先についばむような口づけを落とされた。秀麗はぎょっとしたが、いつもより|妙《みょう》な(気がする)朔抱の様子に、本格的に心配になった。酔うとたいがいわけのわからない行動をとるものだ。 「どうせ晩餐会に出ないなら、今日はふらふらしてないでゆっくり寝《ね》てたらどう。ちょっと待ってて。いま白湯《さゆ》をいれてあげるから」 「甘露茶《かんろちや》のほうがいいな」 「だめ」 「……どうして〜」 「あれ結構甘いのよ。もっと気持ち悪くなったらどうするの。……あ、お湯入ってる」備えつけの小さな茶釜《ちやがま》をあけると、ちょうどよい温度に湯気がたった。そこから茶杓で椀《ちやしやくわん》にすくいながら、ふといつもより閑散《かんさん》としている卓《たく》に首を傾《かし》げる。 「……なんかいつもと印象が…つて、茶葉が甘露茶しかないじゃないの」 「君は私との結婚《けっこん》もあっさり突《つ》っぱねてしまったし、最後にこれくらいの甘い想いを味わわせてくれたって罰《ぼち》は当たらないと思うんだ」秀麗はめまいをおぼえてよろめきかけた。そこまでして甘露茶を飲みたいのか、この男は。 「あ、あのねぇ。……まあとりあえず白湯を飲んで」 「私が心配?」  切れ長の目に甘く見上げられ、秀麗は視線に押されるように思わず身をひいた。  いつもなら素直《すなお》に返事などしないが、病人には優しくが秀麗の信条だ。溜息をついて肯《うなず》いた。 「そうね。いつもより輪をかけておかしい気がするから、ちょっと心配ね」 「……|優《やさ》しいな。じゃあ、飲む」  |微笑《ほほえ》むと、ついと白湯を受けとり、されいに飲み干す。 「ほら、飲んだよ。……だから今度こそ、甘露茶を掩れて欲《ま》しい」 「気持ち悪くなったらどうするのっていったでしょう。だめ」 「……別に私は病気じゃないし、酔ってもいないよ」  秀居は眉根《まゆね》を寄せると、いかにも信用していないというような胡乱《うろん》な目で、じっと朔油を見下ろした。ややあってその額髪をかきあげると、こつんとおでこを合わせた。  これは朔洵の予想外だったようで、驚いたように目を瞳った。秀麗としては病弱な昔から子供の世話をする現在までごく|普通《ふ つう》の|行為《こうい 》だったので、親密な行為とはまるで思っていない。 「……まあ、確かに熱はないようだけど」  さっさと額を外してしまった秀麗に、朔泡は残念そうな顔をした。 「実際、あなたお酒飲みすぎ。普通のお茶ならともかく、甘露茶だとお腹《なか》で変な風に混じって夜中に具合悪くなるかもしれないのよ。今日は白湯だけにしてゆっくり寝なさいよ」 「別に構わないよ。だって君に滴れてもらえるのは、今日が最後だからね」 「……あ、あのねぇ、今日ばかりは意地悪で言ってるわけじゃないのよ?」 「甘露茶を掩れてくれないと、私は死んでしまうよ」二十九歳の男に、こんな風にダダをこねられるとは思わなかった。 「何子供みたいなこといってるの。……まったく、仕方ないわね」  秀麗が溜息をつきつつゆっくりと手を伸《の》ばすのを、朔抱はじっと見つめていた。       。車銀歯轟 「今日は月の出が遅くないですかt?」 「何言ってんだ影月。今日は新月だぞ。真っ暗闇《くらやみ》だって」 「……そうでしたっけ」  その大邸宅《ていたく》を軒《くるま》から一目見上げた影月は、急に背筋がゾクゾクと寒くなった。 「……うわー風邪《かぜ》かなー」 「なんだぁ影月、医者の不養生か? この一大事に。健康管理も州牧の必須《しゅうぼくひつす》条件なんだぞ。早いとこ香鈴嬢《こうりんじょう》ちゃんを嫁《よめ》にもらうしかないな」 「なっ、ななな何言ってるんですかー!」ひとしきり影月をからかったあと、燕青自身も首を傾げた。 「……とかいいつつ、実は俺も妙に鳥肌《とりはだ》立ってんだよなー」  略装とはいえ正規の官服をまとった燕青は、きゅうくつそうに襟元《えりもと》をくつろげた。 「燕青さんそういうきちっとした衣もすごくよくお似合いですね。とっても格好いいです。はぁ、それに比べて……春も思いましたけどほんと僕『着られてる』って感じですよねー」 「なぁ、ちゃんと鏡見たか? 春よりずっと似合ってるぜ。自信もてって。お前、これからどんどんいい男になるぞ。十年後には俺様顔負けのもてもてだ」  茶本邸を見上げていた燕青は、そのとき影月の顔が|僅《わず》かに曇《くも》ったことに気づかなかった。 「さーて影月、覚悟決めたか? ぜーんぶこっちに惹《ひ》きつけるために、わざわざ派手にこんな恰好してきたんだからな。とはいえ乗りこむのは今のとこ俺たちだけ。周りは敵だらけ。人はこれを無謀《むぼう》という」影月は吹《ふ》きだした。 「|嘘《うそ》ぽっかり。あんなにたくさん色々やってくだきって。……ねぇ燕青さん、あなたは僕に、こんなときでも陽月《ようげつ》を出さないのかって言わないんですね?」影月は酒を飲むと豹変《ひょうへん》する。酒癖《さけぐせ》が悪いというよりはむしろ、完全に別の人格が出てくるのだ。そのときの影月は 「陽月」と名乗り、おどろくほど腕《うで》が立つ。ただのコドモな影月より遥《はる》かに実践《じっせん》向きなのだが。 「なんでだ〜州牧なのはお前であって、陽月じゃないだろ」  当たり前のように返されて、影月は満面の笑みを浮かべた。  元気を取り戻《もど》した影月は、門の中へ消える軒の数を数えながら、燕青に言った。 「たくさん一族のかたが入って行きますよー。僕たちも、そろそろいいんじゃないですか?」 「ああ。……ああ〜……こんなバカみてtに豪華《ごうか》な軒借りちまって……もう俺、一生彰《しょう》に借金返せねーよ……」駅者《ぎよしゃ》をつとめる青年が、眼鏡《めがね》を押し上げつつにっこりと笑った。 「一生ツケてさしあげますから、ご心配なく」  さあ参りましょうか、と柴彰は《さいしょう》馬に|鞭《むち》を当てた。  茶州の司牧ここにあり、といった豪華洵欄《ごうかけんらん》たる飾《かぎ》り軒が門前に横付けされ、茶家の私兵は慌《あわ》ててそちらに向かった。四頭だての馬の飾りもこれまた贅沢《ぜいたく》なしつらえで、ちょっとつつけば細工ごと|大粒《おおつぶ》の宝玉がはずれそうだった。これだけたっぷりあるなら、幾《いく》つかくすねてもそうそうパレはしまい。私兵という名の破落戸《ごろつき》たちが、そんな悪心を起こしても不思議ではない。  私兵たちが馬肺に気を取られているその間隙《かんげき》を縫《ぬ》って、静蘭は春姫を抱きかかえて|壁《かべ》を乗り轡え、なかに梨? た。  ひらりと本邸の壁を乗り越えた瞬間、《しゅんかん》まるで見えぬ雷撃《らいげき》を受けたかのようにびりびりと全身がしびれた。いや、しびれたのは静蘭自身でなく。 (�干将″《かんしょう》かー?)  腰《こし》の凧刀《はいとう》は一見して変化は見られない。けれど身体《からだ》に接するところから、確かに鳴動しているのがわかる。まるで生きているような、どくどくという|鼓動《こ どう》さえ聞こえそうな気がした。  静蘭は眉根を寄せた。先王に下賜《かし》されたおりに聞いた�干将″�莫邪《ぼくや》″にまつわる由来を思いだす。そもそも、これが何のためにつくられた剣《けん》なのか−。 「春姫様、これを」  静蘭と春姫が向かう先は、ここからは正反対になる。そして静蘭には彼女のすることを助け  てやれるだけの猶予《ゆうよ》がない。  いかにもかよわそうな彼女一人なら、まさかいきなり剣を上げて|襲《おそ》いかかられる可能性はないだろう。実家とはいえ、公《おおやけ》に出てこなかった春姫の顔はあまり知られていないという。間取りを正確に覚えてしまうくらい実はあちこちふらふらしていたのだが、誰《だれ》も彼女が茶春姫とは気づかなかった。それならば素知らぬ顔で歩き回ることも可能だ。  しかし�干将″がこれだけ反応しているとなると−別な意味での危険性がある。  静蘭は迷いなく�干将″をきしだした。 「これは女性には優しいはずですから、きっとあなたをお守り下さるでしょう」  |詳細《しょうさい》を省いたら、一応事実なのだがかなり端的《たんてき》な言い方になってしまった。  けれど春姫は首を横に振《ふ》って、剣を静蘭に押し返した。 「春姫様、別にこの剣がなくても私はー」  そのとき、いかにも州武官と知れる恰好をしていた静蘭が、私兵のひとりに見つかってしまった。夜目にははっきりとわからないが、|松明《たいまつ》の数からして、かなりの大人数である。  静蘭はためらった。あれくらいの数を叩《たた》きのめすのは何ほどのものでもないが、今は時期尚《じきしよ、つ》早《そう》だった。州牧と州努《しゅういん》として正面から乗りこんだ二人のために、しばらくほおとなしくしているはずだったのだが……。  しかし春姫がいる。やはりここは守らねばならないと、静蘭が剣の柄《つか》に手をかけたときだった。その甲《こう》を、春姫がまるで|大丈夫《だいじょうぶ》というように軽くおさえてきた。 「春姫様−? 言葉が通じる相手では」  すると突然《とつぜん》、春姫は背伸《せの》びをして静蘭の両耳に何かをぎゅっと詰《つ》めこんだ。 「わ、綿? な、何をなさるんです?」  反射的にほじくり出そうとしたら、手をびしゃんと打たれた。静蘭はまるでわけがわからずに日を白黒させた。そんな彼にちらりと笑《え》みを閃《ひらめ》かせたかと思うと、春姫はゆっくりと一歩静蘭より先に踏《ふ》みだした。そしてー次の瞬間、目前で起こったことに静蘭は唖然《あぜん》とした。  春姫が彼を振り返り、にっこりと笑った。それから裾《すそ》をちょっとたくしあげて一人駆《か》けだした彼女を、静蘭はもう追わなかった。 「……参ったな……」  静蘭は思わず口許《くちもと》に手をやると、手にした�干将″に視線を落とした。 「お前をつくった家の血をひく女性ってことを忘れていたよ……それにしても」  いきなりその場にぶっ|倒《たお》れて、大いびきをかきはじめた髭面《ひげづら》の私兵たちをまたぎながら−外傷は多分すっころんだときのコブくらいであろう——静蘭は嘆息《たんそく》した。 「足手まといどころか、もしかして最強なんじゃないか……」  秀麗といい、春姫といい、女性陣《じん》のほうが遥かに強いとは情けない。  一つ苦笑《くしよ事り》すると、静蘭も夜にまざれて目的地へ向かって走りはじめた。         鮨前歯容態  かたんーと音をたてて、�莫邪″が床《ゆか》に転がった。  劉輝《りゆうき》は|驚《おどろ》いて手を伸ばし、びり、と痔《しび》れる刀身の感覚に眉根《まゆね》を寄せた。……震動がやまない。  宝物庫に安置されてはいたが、この双剣の管理管轄は戸部《こぶ》ではなく仙洞省だ《せんとうしょう》。遥か昔、異能の一族である繚家の者が夫婦で打ち|鍛《きた》えたとされ、仙具に準じる扱いを受ける。かつて先王から兄に下賜《かし》される折も、仙洞省は相当渋ったと聞いた。この宝剣はそれぞれ陰陽を司《いんようつかきど》り、�干将″が陽、�莫邪″が陰−それが双《ふた》つで一つの理由でもある。 『劉輝−お前は男だから、引き離《はな》しても�莫邪″も少しはおとなしいだろう』  そのときは兄の言葉の意味がよくわからなかった。けれど後で知ったところでは、本来双つで一つのこの双剣を無理に引き離すと、反発がくるのだそうだ。けれど女人《によにん》の性である�莫邪″は、使い手が男ならば、まだおとなしくしてくれるらしい。  反対に、陽の�干将″と陽《おとこ》の兄なら、劉輝に�莫邪″を渡《わた》したときかなり 「暴れた」はずなのだが、……兄はそれを抑《おさ》えこめたからこそ、使い手と認められたのだろう。 (……この双剣の由来は、確か−1一)   ー破魔《はま》。  それでも、この双剣は|滅多《めった 》なことでは鳴らないと聞いていたのに。  赴任《ふにん》の期限まであとわずか。′藍龍蓮か《らんりゆうれん》らの文《ふみ》はいまだこない。 「兄上……秀麗……」  劉輝はぎゅっと�莫邪″を抱《だ》きしめた。  あの紅尚書《こうしようしょ》も、今回はただ|黙《だま》って見ている。−わかっている。それが正しい。どんなに助けたくても、手を差しのべたくても、王の身で、してほいけないことがある。  今はともに歩めるところまで、上がってくる日をただ待つことしかできない。  それでも心が震《ふる》える。離れて待つのはつらい。今すぐに駆けていきたい。愛《いと》しいからこそ守りたい。ー逢《あ》ってこの手に抱きしめたい。  劉輝は震える唇で呟《くちびるつぶや》いた。言えることなどたった一つしかない。 「それでも、待っているから……どうか」  二人とも、無事で、……戻ってきて欲《ま》しい。 「秀麗……そなたは余の言葉を覚えているか……?」  1愛していることを、どうか忘れないで。  噴《ささや》きは、|漆黒《しっこく》の夜にこぼれて消えた。   ・   歯車魯車扱  力に気づいたのは、祖母の英姫だった。  そのころの春姫はまだずっと幼くて、力を力と思わなかった。息を吸うように、食事をするように、ごく|普通《ふ つう》のものだと思っていた。右手と左手を使うように、力ある言葉と普通の言葉を使い分けることができた。  ある日、皆《みな》で物見遊山《ものみゆさん》に行った先で賊《ぞく》に襲われた。そのとき春姫の小さな呟きが賊徒どもを方向転換《てんかん》させたと気づいたのは、彼女を腕《うで》に抱いていた祖母だった。 『いったいこれはどうした事態じゃ、こんな話は聞いたこともないわ……』  二人きりになると、祖母はきちんと真向かい、わずか二歳の春姫に理解できることも、理解できないことも、すべてを懇々《こんこん》と話した。 『なぜわたくLがそなたにしゃべってはいけないと申すのか、また理由を訊《き》きたくなったら遠《えん》慮《りよ》なく訊くのじゃぞ。何度でも話そう。そなたがすべてを解するまで』最初は大好きな祖母の頼《たの》みゆえに、わけもわからず肯《うなず》いた。しかし歳《とし》を重ねるごとにやはり疑問がわいてきて、何度も何度も聞いた。そのたびに祖母はじっくりと話してくれた。そしてようやくすべてを理解したとき、その考えに|納得《なっとく》し、自らの意志で従うことに決めた。  茶家にも、繚家にも、他《ほか》の誰にも利用されないために、春姫は声そのものを封《ふう》じた。  たったひとつ、祖母と約束した例外をのぞいて。   −よいか春姫、其《そ》の力はただ一人のためだけに使うと約束しておくれ。   −いつか出会う、たった一人の特別な 「他人」のためにのみ。 『言葉を封じたお前になら、人は侮《あなど》り本来の姿を簡単にさらすじやろう。こっそり鼻で笑って  逆に良く見極《みきわ》めてやれい。何もなくともお前を求める、最高の男がきっと見つかろう』  羽扇《うせん》をゆったりと扇《あお》ぎ、嬢然《えんぜん》と祖母は微笑《ぴしょう》した。   −もしその相手が自分以外の誰ぞの心配で苦境に陥《おちい》るようなお人好《ひとよ》しの馬鹿者《ばかもの》なら、そのときはお前の力で助けに行ってやるがよい。  −ーあたくしが、かつて夫のもとにそうして駆けていったように、  すべてを尽《つ》くして、愛する馬鹿者を救いに行けー。  春姫は駆けた。邸《やしき》の造りはすべて頭に入っている。秀麗から逐一《ちくいち》送られてきた隠《かく》し室《ベや》の報告も、残らず叩きこんだ。  秀麗からの書状によれば、配膳《はいぜん》の流れにおかしなところはないという。  とすれば、残る可能性はたったひとつ、遥《はる》か昔から脈々と繰《く》り返されていることで、余分に配膳されることになんら疑問をもたないところがある。そしてほとんど誰《だれ》も近寄らない場所。  春姫でさえ遊ぶ気にもならず、いつしか記憶から消してしまった場所。  あの人がいるとしたら、あの場所−。  庭院《にわ》のはずれ−鬱蒼《うつそう》とした奥深くに侵入《しんにゅう》すると、盛大な怒鳴《どな》り声が聞こえてきた。 「〜くく−′ネタは上がってんのよっ!! もう時間がないのよ。いないですって!?ああそうじゃあどいてよ。自分で確認《かくにん》するから。いなきゃ入ったっていいでしょうが。ご神罰《しんばつ》がくだるですって!?馬鹿じゃないのなんで仙人《せんにん》様が神罰くだすのよ。よりにもよってここに人を監禁《かんきん》してる方がよっぽど仙《ヽ》罰《ヽ》くだるってものよ。−四の五の言わずにさっさとどきなさいっっ!! 」肩《かた》を怒《いか》らせ、ぽんぽんと威勢《いせい》良く舎人を怒鳴り散らしている少女が見えた。  彼女の前にあるのは毎朝毎晩ご神供《しんせん》がお供えされる、ひっそりと建つ小さな宮。  人の世の黎明《れいめい》とされる国造りの昔、蒼玄の許《そうげんもと》に集《つど》った彩八仙は政底《さいはつせんばつこ》する魅魅魅魅《ちみもうりょう》もろとも邪《じや》悪《あく》な大妖《たいよう》を次々封じた。どこの村にも必ず一つは小さな社が《やしろ》ある。茶本家にも、時の王が支配する州名にちなんで豪族《ごうぞく》たちを改姓《かいせい》させる前から、素直な感謝と畏怖《いふ》、そして自らの偉容《いよう》を示すために、彩八仙をまつる立派な社がたっている。  社の|扉《とびら》は小さく開いていた。その前には、異様に大勢の武装した舎人が集まり、行く手を軋《まま》んでいる。春姫には彼らが寄せ集めの破落戸《ごろつき》ではなく、主の傍《あるじそぼ》を守るために仕えてきた家人たちであることに気づいた。  春姫は駆《か》けながら秀麗に向かって|叫《さけ》んだ。 「紅秀麗様−よろしいと申しあげるまでお耳を両手でお塞《ふき》ぎになってくださいませ」  なにをと問い返す前に、自分の意志とは別の力で、秀麗の手はしっかりと耳を塞いでいた。  それを見届けた春姫は、今度は宮の前に陣取《じんど》る家人たちに眼差《まなぎ》しを向けた。  力ある�声″がその場を支配する。 「そこな雑兵ど《ぞうひよう》も、全員お下がり。わたくLが良いと命じるまで気絶なさいー!」  途端《とたん》、舎人たちはふらふらと|廟《びょう》の前を離れたかと思うと、次々と倒れた。  秀麗は耳を押さえながら唖然《あぜん》としてその様を見ていた。いったい何が起こったのやら。  端整《たんせい》な顔立ちの少女が何ごとか言うと、ふっと押さえがなくなったように手が離れた。 「お初にお目もじつかまつります。紅秀麗様でいらっしゃいますね」  凛《りん》と|響《ひび》きつつもどこか|優《やさ》しく、落ち着いた声だった。  秀麗はすぐに理解した。ここまでたった一人で駆けてくる理由をもつ、自分と同じくらいの歳の少女は一人しか思い当たらない。けれど確か、彼女は言葉が……。 「あたくしは茶春姫と申します。ここまで我が茶家のために幾多《いくた》ものご尽力《じんりょく》を頂きまして、当家に成り代わり心より御礼《おんれい》申し上げます。ここより先は、わたくLが−」そのときだった。  ずる、と|妙《みょう》な音が宮から聞こえてきた。  二人の少女は同時にひらいていた社の扉を振《ふ》り返った。  のぞく|隙間《すきま 》から見える社の奥は、闇《やみ》が深くて何も見えなかった。そこから、何かを引きずるような、必死で這《は》いのぼってくるような物音が聞こえてきた。 (な、何だか知らないけれどこれ、ろくなもんじゃないわよ絶対)  秀麗は即座《そくぎ》に春姫の腕をつかむと、引きずるように物陰《ものかげ》に隠れた。  春姫はおとなしく従って身を潜《ひそ》めると、小首を傾《かし》げた。 「……舎人どもが大勢おりましたが、先にお入りになったのはどなたなのです〜」 「それがわかんないの。一見誰もいないのに翔琳《しようりん》くんが『そこらへんに見張りが潜んでる』って。それで確信もてたんだけど、私じゃ喧嘩《けんか》しても勝てないし、翔琳くんも熊《くま》相手の闘《たたか》い方は知ってるけど人相手はわからないらしくて、今まではここらへんうろうろするだけだったの。  でもさすがに今日はお邸の警護で散るだろうと思って朝から張ってたんだけど、一向に減らないから、ちょっと離《はな》れに戻《もど》ってもう一回きてみたら、さらに増えていたのよ。もう時間もないし、こうなったら正面|突破《とっぱ 》しかないかなって玉砕覚悟《ぎよくさいかくご》で喫吋《たんか》を切ってたんだけど……」その間にも|不吉《ふ きつ》な音は階を上がってくるようにのぼってくる。そして転がり落ちるように扉から出てきた老人に、秀麗と春姫は息を呑《の》んだ。 「あの人……」 「仲障《ちゅうしょう》……大叔父様《おおおじさま》」  顔色は青ざめるのを通りこしてもはや白に近かった。そこらに転がる舎人たちになど目もくれない。気づいていないのかもしれなかった。腹からあふれる血を手でおさえるようにし、噛《ぜん》鳴《めい》しながらまるで鉛の足伽《なまりあしかせ》でもつけているかのように身体《からだ》を引きずる。  手の施《ほどこ》しょうがないのは、顔色からして明らかだった。それでも秀麗には、たとえどんな人物でも命が尽きるのをただ|黙《だま》って見ているわけにはいかなかった。   −特にあの人には、言うべきことがある。  秀麗が思わず足を踏《ふ》みだしたときー仲障の前方の木陰を割って、誰かが姿を現した。 「ああ、ここにいらっしゃいましたか」  灯寵《とうろう》を手に、眼鏡《めがね》をかけたその青年は落ち着き払《はら》った仕草で、もう片方の手を差しだした。 「仲障殿《どの》。お約束のものをお届けに参りました」 「……さか……あやつごときに……つ」  仲障は足を引きずって歩いた。まるですべての命の残り火を燃やし尽くしているかのように、今は身体が熱かった。 「死ぬ……ものか。ここまで……きて……つ」  すべてがようやくこの手に入るというときになって。  ひゅうひゅうと鳴る喉《のど》が、うるさいくらいに耳につく。  夜の唯が《とぼり》おりはじめていた。足音に気づいて初めて、仲障は前方からゆっくり歩いてきた眼鏡の青年に気がついた。名を呼ぼうとしたが、いまいましいことに声にはならなかった。 「仲障殿。お約束のものをお届けに参りました」  柴彰は一瞬だ《いつしゅん》け視線を仲障の背後にずらしたあと、ゆっくりと小箱をきしだした。   −茶家当主を証《あかし》立てる新しい指輪。  仲障は最後の力を振り絞《しぼ》って小箱をわしつかんだ。ぶるぶると震《ふる》える指は血で真っ赤に染まり、美しく|装飾《そうしょく》された箱があっというまに赤い指紋《しもん》で汚《よご》れる。何度も血にすべり、苛々《いらいら》しながら仲障は長い時をかけて留め金を撥《は》ね上げた。  仲障には、自分の目に映るものが何か、わからなかった。 「  −」  なかには、何も入っていなかった。枯《か》れ木《き》のような指でまさぐっても、何もない。  血走った目で見上げると、青年は眼鏡を外し、にっこりと笑った。 「お客様からのどのようなご要望にもお応《こた》えするのが商人の斡持《きょうじ》。ですが」  さえざえとした瞳が《ひとみ》仲障を見下ろす。 「あなたには差し上げられない。それが、代々茶家の横暴に敢然《かんぜん》と立ち向かい、どれほど粛正《しゅくせい》を受けようと決して屈さなかった誇《ほこ》り高き官吏《かんり》の一族、柴家の人間としての、私の答えです」 「お……のれぇええ」仲障は小箱を地に叩《たた》きつけた。 「おのれ……わしだけでは逝《ゆ》かぬぞ……終わらせてやる、何もかもすべてー」 「何も終わりませんよ」  柴彰は静かに答えた。 「浪燕青殿と鄭悠舜殿は、赴任《ふにん》直後から十年の歳月をかけて手を打ってきたのですよ。あなたごときに太刀打《たちう》ちできるわけがないでしょう。郵悠舜殿はとうに塔《とう》からお出になり、着任式の準備を|万端《ばんたん》に整えております。臨席する各太守《たいしゅ》もすでに全員境埴《これん》入りを果たしました。各地の|騒《さわ》ぎなど、彼らに踊《おど》らされていただけですよ」 「な…に……」 「茶鴛洵殿の計報《えんじゅんどのふほう》直後、我が父に届いた書状をご存じですか。『これから茶家が暴れはじめる。  州府の有能官吏をそっちに飛ばす。どんな騒ぎが起きても、慌《あわ》てず騒がずギリギリまで泳がせて尻尾《しっぽ》をつかめ。最後はキチッとしめるから安心しろ。困ったことがあれば全商連経由で文をくれればすぐに対処するから』−同時期に、全太守に同じものが届いたそうです」わなわなと仲障の唇が《くちげる》震えた。血の混じった唾液《だえき》が口の端《はし》にこぼれる。  柴彰は再びちらりと、仲障の背後に視線を投げた。 「全郡太守はそろってこれに従いました。彼らは茶州を十年治めてきた二人の司牧を信じている。それだけのことをあのお二方はしてくださったからです。彼らの最後の花道に、その恩を返さないでどうしますか」金華《きんか》の�殺刃賊《きつじんぞく》″だけは予想外だったが、その他は総じて最小限の|被害《ひ がい》でくいとめている。  太守たちは、この一年集めに集めた茶家弾劾《だんがい》の|証拠《しょうこ》をすべて風呂敷《ふろしき》に包んで担《かつ》いで、全商連の認定した商人の隊列に扮《ふん》して、徒歩でぞくぞくと境噂に入ってきていた。 「さすがの凄腕《すごうで》商人たちも、一郡の太守を差し置いて、立派な軒《くるま》に乗るのは肝《きも》が冷えたみたいですね。盛大に行うべき新州牧着任式と茶家新当主就任式の時期に、物流を全面停止するわけにもいかないと、あなたは境瑳封鎖《ふうさ》のあとも、商人の往《い》き来《き》だけは例外にしてくれていたんですよねぇ」 「……つ」 「残念ながら、あなたが煽動《せんどう》した各地の騒ぎはすべて収束し、境噂に仕掛《しか》けた火の手は一つもあがりません。太守たちのまめまめしい努力のおかげで証拠もそろいましたので、もうすぐ境噂の正規州武官と、新州牧たちの要請書《ようせいしょ》によってご協力申し上げることになった我《わ》が全商連の群鋸が、みなさんにお配をかけに乗りこんできますよ。いやぁ、茶家の重要人物が那那いしてくださっていて、楽で嬉《うれ》しいとの鄭補佐《ほさ》よりのお言葉です」 「……のれ……おのれぇええええ!! 」血があふれるのも構わず、腹の底から仲障は叫んだ。 「縄をかけるだと!?ふ、は、ははは! 死体に縄をかけて引きずっていくがよいわ!」 「……なんですって?」 「そろそろ|晩餐《ばんさん》の時刻よの。血が薄《うす》いの傍流《ぼうりゆう》のと煩《うるさ》いあやつらを|邪魔《じゃま 》に思っていたのはわしとて同じよ。当主就任の儀《ぎ》を機に一掃《いつそう》してやるつもりだったわ。我が兄上がしたようにな!」柴彰の顔色が初めて変わった。 「……まさか」  柴彰は仲障の隣を駆《となりか》けると、背後で打たれたように立ち尽《つ》くしていた秀麗と春姫に|叫《さけ》んだ。 「行きましょう! 杜《と》州牧と浪州声《しゅういん》に知らせなくては」 「待って!」  秀麗はずるずると歩きはじめた仲障のあとを追った。その前に立ち塞《ふさ》がり、ためらいなく自分の袖《そで》をひきちぎると、腹の刺《さ》し傷《きず》の上を乱暴に縛《しば》る。 「茶仲障、罪状をつまびらかにしたのち、追って沙汰《さた》をいたします。茶本家の者としての誇りがあるのなら、ここで待ちなさい。その最後のつとめを果たし、縛《ばく》につきなさい」  どの言葉に反応したのか、仲障の歩みが止まった。いまだぎらぎらと燃える瞳が、初めて秀麗と合った。 「もう動いてはだめ。−あとで必ず参ります」  秀麗はそう告げると、|踵《きびす》を返した。もう後ろは振《ふ》り返らない。 「多分、戻ってくるまで、もちませんよ」 「−そうかもしれない。でも」 「ええ。ご立派に州牧《しゅうぼく》としてのお役目を果たされたと思いますよ」  ……自信はなかった。死にゆく者にかける最期《さいご》の言葉が、あれで本当に良かったのか。  それでも、血と茶家の誇りにこだわったあの老人には、最後まで茶本家の者として扱《あつか》うべきだと思った。犯《おか》した罪に対して、州牧としてあれだけは言わなければならないと思った。 「……わたくしからも、お礼申し上げます」  夜目にも青ざめながらまろび寄った春姫は、深々と秀麗に頭を下げた。 「大叔父上《おおおじうえ》に最後までお心遣《こころづか》いをくださった、紅州牧のご厚情に感謝致《いた》します」  秀麗は微《かす》かに首を横に振り、春姫の声を初めて聞いて目を丸くしている柴彰を振り仰《あお》いだ。 「……二人で母屋《おもや》に行っても意味はないわ。当主選定式には彰さんが行って頂けますか〜私は春姫さんと行きます。あとで必ず追いかけますから!」 「わかりました。ではこれをどうぞ」差し出されたのは、茶本邸《ほんてい》にくるまえに影月に預けておいた州牧印。 「杜州牧から預かってきました。でさればあなたを捜《さが》して渡《わた》して欲《は》しいと。確か『州牧印の返《へん》戻《れい》を以《もつ》て即時《そくじ》復位復官とし、書状を破棄《はき》とする』でしたね?」受けとった瞬間から、秀麗は再び名実ともに州牧に戻《もど》る。 「……はい。届けてくだきって、ありがとうございます」  秀寮はためらわずに印を受けとった。そしてもうすっかりいつもの諷々と《ひようひよう》した顔に戻った柴彰を見上げる。 「……私、一瞬あなたを疑ってしまったの。ごめんなさい」 「上出来です。誰《だれ》も彼もを簡単に信じられては困りますからね。特に私みたいな男は要注意ですよ。−それでは幸運を」時を無駄《むだ》にせず柴彰が駆け去ると、秀寮は春姫を振り返った。 「じゃ、私たちも行きましょう。|覚悟《かくご 》はいい?」  春姫ははっきりと肯《うなず》いた。仲障があれほどの傷を負って出てきた以上−もし克泡がなかにいるのなら、どちらにせよ、春姫は覚悟を決めねばならなかった。  彼の死を受けとめる覚悟か、生きているならば彼を支える覚悟を。 「もとより、そのつもりで参りました」 「わかった。じゃ、とりあえず転がっている舎人さんから|松明《たいまつ》を失敬してーと」  秀麗が転がっている松明を拾って赤々と燃える神灯から火を移したとき−視界の隅《すみ》で、何かが小さくきらめいた。 「……?」  不思議に思って近寄り、拾い上げたものを見て−息を呑《の》んだのは春姫のほうだった。  茶家の誇りがあるならと言われて、ひききがるわけにはいかぬ。  仲障はその場にくずおれるように|倒《たお》れ込んだ。闇《やみ》が、ゆるゆると忍《しの》び寄る。  |脳裏《のうり 》に浮《う》かぶのは、たった一人きりの兄。 「鴛洵……兄上えええ……!」  いつだって自分の上にいた。すべてを支配していた。目も眩《くょり》まんばかりに邪魔だった。なぜいつもいつも……いつも兄ばかり。  何が|間違《ま ちが》っていたのか。なぜここまできて|崩《くず》れ落ちる。兄は最後の最後まで勝利しかつかまなかったのに、なぜ私ばかり藁《わら》をつかまされる一針。  繚英姫のような妻もなく、あの出来の良かった甥夫婦のような子ももてず、孫はろくでもないものばかり。 「このわしにっ、あとすこしの運と才さえあれば……!」  不意に、臥《ふ》した仲障の視線の先に、誰かの|爪先《つまさき》が見えた。 「……愚《おろ》かな」  若く、それでいてひどく老成した声だった。聞いたことのない声だった。いやー深くに埋《ヽワ》  もれた|記憶《き おく》のなかで、かすかに覚えもあるような気もした。                                                          よ 「鴛泡が、運と才だけであそこまで這《lこ一▼》い上がったと思うのか」  遠慮《えんりょ》のない嘲罵《ちょうば》に、疲《つか》れ果てたはずの仲障の頭に血が上る。 「そうだ! それ以外でわしと兄と、何が違う! 同じ女の腹から生まれ、同じ|境遇《きょうぐう》を過ごし、同じものを食べた。なのになぜこれほどまでに道がわかたれた!」 「それが、お前のいう運と才か? ならばその二つとも、鴛洵などよりお前のほうがよほど多くもっていただろう?」仲障は霞《かす》む目を見開いた。相手の顔が見えない。こんな若い声の男が、兄の何を知っている−そう叫ぼうとして、血塊《けつかい》がごぼりとあふれた。  赤黒い血を咳《せ》き込む仲障に、男は手を差しのべなかった。 「運も才も、お前ほどにもっていたら、鴛抱はあそこまで苦労しなかったよ。刑《いぼら》の上を、灼《や》けた鉄の上を、凍《こご》えた雪の上を、そうと知って自ら裸足《はだし》で歩いていくような男だ。……あそこまで|馬鹿《ばか》な男を、私は知らない」仲障は震《ふる》えた。そんな兄は知らない。兄はいつだって、|涼《すず》しい顔をして最高の道を歩いていたはずだ。栄光に満ち、いちばん上の階《きぎはし》までひたはしり。  声が、雪のように冷たく降ってくる。 「あいつが何かを多くをもっていたとしたら、それは|優《やさ》しい心と、たゆまぬ努力だけだ」  いつも、灯火《とうか》の下で勉学していた兄。その灯《あか》りが尽きた時を、仲障は知らない。  珍し《めずら》い書物があると聞けば飛んでいき、この時勢では身を守ることも必要と、慣れぬ手つきで剣《けん》の手ほどきを受けていたことも覚えている。先王|陛下《へいか 》の許《もと》に仕えることを決め、ためわらず戦火の中に飛びこんでいった。  そうして、兄がひたすら前へ歩いていくとき、自分は何をしていただろう。  嘲笑《あぎわら》う以外の、何を。 「傷だらけになっても何一つ泣きごとを言わぬ。だから私や宋《そ−つ》は鴛洵を引きずり戻すのに、とんだ苦労をしたものだ」 「…………兄…上……は……」 「悪いが、鴛抱にはもうお前のために割《さ》く時間は残っていない。だから私がきたんだ。お前の最期《さいご》を見とってやってくれ、といわれたのでな。死んだあとまで鴛掬に迷惑《めいわく》をかけて、まったくどこまで出来の悪い弟なんだ? あれほど兄に気にかけられていたのに、妬《ねた》むだけ妬んでなにもせぬ。まったく話を聞くたびに何度ぶち殺してやろうと思ったかしれない。あげく、とことん自分勝手な妄想《もうそう》と誤解で歪《ゆが》んで凝《こ》り固まって−お前はあのとき、英姫のほかにただ一人すべてを見ていただろう。英姫が何と言ったか、本当に思い出せないのか?」室《へや》に入った途端《とたん》、鼻をついた血臭。転がる死体。ただ一人立ちあがった兄。血まみれの剣。  自分を追い越《こ》して、兄に駆け寄った美しい−一目で心を|奪《うば》われた、兄の妻。  ー     一理  ……そうだ、確かに、兄にしがみついて、彼女は何かを叫んだ。何か−何を?  天啓《てんけい》のように脳裏にひらめくものがあった。 『そなたのせいではない! これは、何一つそなたのせいではない!』  何も言わず、ただ静かに見下ろす兄に、彼女は泣きながらしがみついた。 『お前が一人ですべてを背負う必要がどこにあるのじゃ鴛洵——!』  全身が震えた。思い……だした。そうだ−あれは、本当はー兄が、したことはー。  |馬鹿《ばか》馬鹿しいとばかりの、|溜息《ためいき》がふってくる。 「鴛泡は何も言わなかった。だがな、英姫とお前だけは、あそこで何が起こったのか、その真相を、知ることができた。英姫はちゃんとわかっていた。だが、お前はどうだ7日分の信じたいものしか信じょうとしなかった。そして、今、愚かにも同じことを繰《く》り返した」 「……あ……」                                                                                                                                             ヽ一 「茶春姫は、あのときの英姫と同じように駆《か》けていったよ。今ならわかるだろう。鴛洵のあとを継《つ》ぐ者が、本当は誰だったのか」 「……う…|嘘《うそ》だ……」 「何が嘘だ。お前は最初から間違えていたんだよ。何もわかろうとしなかったお前に、鴛泡を越えることなどできるわけがない。あの馬鹿は、すべてを守ろうとしていたのに」ずけずけとした物言いに、仲障は何だか笑い出したくなった。  泣きたくなった。  ……本当に、間違っていたのだ。何もかもを間違えていた。  いつもその背中しか見えなかった。だから前を向いた兄がどんな顔をしているかなど、知りもしなかった。考えもしなかった。兄はたった一人でも生きていけるのだと思っていた。  それが、ねたましかった。憎《にく》かった。憎かった憎かった憎かった。  もしかしたら泣いていたかもしれなかったのに。一人歩く兄の前に回って、|一緒《いっしょ》に歩いていきたいといったなら、|微笑《ほほえ》んで肯いてくれたかもしれなかったのに。  つないでいた手をいつか離《はな》してしまったのは……自分のほうだったのだ。 「……鴛洵……兄う……わ、ほ、…………」  深すぎる闇は、今宵《こよい》が新月だからだろうか。なぜ、視界がこれほどに昏《くら》い。  仲障は初めて|後悔《こうかい》の涙《なみだ》を流した。最後の粒《つぶ》が頬《はお》をすべる前に、彼は静かにことされた。 「……遅《おそ》いんだよこの愚弟《ぐてい》。お前が最後まで余計なことをしたせいで、鴛抱はー」  吐き捨てるように呟くと、男は春姫と秀麗が駆けていった宮を見つめた。       e前場巻線  宮のなかは仲障が行きにつけたらしき灯《あか》りがぽつぽつと灯《とも》る以外、深い闇に埋もれていた。  秀麗が隅《すみ》に口をあけた階が《きぎはし》延々延《の》びているのを見つけると、先に飛びこんだのは春姫だった。  そのとき、天をもつくような絶叫が《ぜつきょう》下からつきあげるように耳を打った。  思わず足を止めた秀麗とは反対に、春姫はまろぶように階を駆け下りた。そのあとを慌《あわ》てて  追いながら、さっきの雄|叫《さけ》びは克洵だったのかと息を呑む。  良かった。生きていた!?鞭れど、この、声は−封まつこうこう  《0》灯りが見える。大きな炎が燃えている。四隅の松明で、僅々と闇を照らして。  むっとするような甘い甘い|匂《にお》い。けれどそれに混じって、つんと鼻をつく嫌《いや》な臭《にお》いの正体に思い当たったとき、秀麗はぞっとした。 (これーまさか1)  仲障の様子から、ある程度の覚悟はした。けれど、あまりにもこれは濃《すJ》すぎるー。  そして僅々と灯りに照らされた地下の有様を見たとき、秀麗は悲鳴を上げないようにするのがl堕杯《せいいっぱい》だった。こみ上げてきた吐l《ま》き気l《ナ》を必死でこらえる。  枯《か》れ木《き》のような誰《だれ》かの死体と、まさに血の海としか表現できない一面。   −その血だまりのなかに脆《ひぎまず》いて、絶望に覆《おお》い尽《つ》くされた顔をしていたのは。 「克洵様−!」  格子《こうし》の向こうで全身血しぶきで真っ赤に染まった愛《いと》しい人のもとに、春姫が駆ける。  秀麗は最下段をおりたところで、足を止めた。正直、あまりの光景に|膝《ひざ》が動かなくなったというのもある。だが自分が行けるのはここまでだと思った。  茶家に関して秀麗が言えることは何もない。言うべき言葉などない。  何かを終わらせることも、始めることも、茶家の人間であるあの二人にしか決められない。  できることは州牧《しゅうぼく》としてすべてを見届け、裁くこと。そして。 (しっかりしなさい私! もしあの二人が立てなくなったら、支えるのは私なんだから)  目をひらいて、ちゃんと見ていなくては。茶州の民《たみ》を守り支えるのも、自分の役目。  秀麗は掌《てのひら》にある州牧印を、ぎゅっと|握《にぎ》りしめ、ただ|黙《だま》って起こることを見ていた。  のろのろと、克泡が顔を上げる。春姫が喉《のど》を震わせて彼の名を呼んだことさえも気づいていない。もうほとんど狂気《き喜フき》に覆い尽くされているその日に、春姫は駆け寄って頬を張った。初めての|行為《こうい 》に加減がきかず、びりびりと繊手《せんしゅ》に激痛が走る。けれど撲《なぐ》った手よりも心のほうがずっと痛かった。 「しっかりなさいませ! −わたくしの顔までお忘れなさるおつもりですか!?」 「春…姫……」  克洵の瞳《ひとみ》から、涙があふれた。ほんのわずかに、正気の光が戻《もど》った。 「僕…僕はもう−」 「もう、なんなのですか」 「父…を殺し、祖父を刺《き》した……もう僕には何も残っていない。たった一つもっていた心も」そこで春姫は初めて、傍《そぼ》の枯れ木のような骸が叔父《むくろおじ》のものであることを知った。  悼《いた》むようにそちらに視線を向けてから、もう一度まっすぐ克泡の目を見すえる。 「わたくしの目をきちんとご覧になって」  涙と演《はな》と血でぐしゃぐしゃになった克掬の頬を、春姫は両手でそっと愛しげに挟《はさ》んだ。 「そんなことは、ありえません。あなたにそんなことができるはずがありません」  言い切った。嘘ではなかった。 「あなたは、花さえ手折《たお》るのがかわいそうだったからとおっしゃって、根から引き抜《ぬ》いてもってくるようなかたでした。あのあと二人でお庭の隅《すみ》に植え直したことを、春姫は今でも覚えております。そのあなたに、誰かを殺《あや》めることなどできません」|嗚咽《お えつ》をもらしながら、克抱はかぶりをふった。 「……僕は……おかしく、なってしまったんだ。殺すことばかり……考えていた。鴛洵大伯父《おおおじ》様《さま》のように、すべてを壊《こわ》して、やり……やり直すしか、ないと……思……」 「……お祖父様《じいさま》のように?」 「もう……もう茶家はだめだ。できることはそれしかないと……」 「お祖父様のことはわかりません。けれどお祖母様《ばあさま》がお祖父様を信じていたように、春姫は克洵様を信じます。あなたは、誰も殺してはいない。やり直す方法は、まだ残っています」春姫はぎゅっと克抱の両の二の腕《うで》をつかんだ。 「やり直したいとお思いなら、茶家の当主におなりなさい」  克陶は何を言われたのかわからなかった。 「……そんなばかなこと……」 「何が|馬鹿《ばか》です。あなたはいつだって茶家のために駆けずり回っていたではありませんか」 「結局何もできなかった! 僕は取り返しのつかないことをしたんだ!!今さらー」 「いい加減になさいませ!」  凛《りん》とした声が克陶の頬を打った。 「何もできなかっただけですませて、安楽な場所へ逃《に》げ込むおつもりですか。取り返しのつかないこととはなんです。叔父上と大叔父上のことですか。どうせわたくLが何を申しても、あなたはご自分を責めるのでしょう。たとえ仙《せん》の宝貝《どうぐ》で真実を知り、本当にあなたが殺したのではなかったのだとわかっても、結局は自分が殺したようなものだと、やっぱりご自分を責めるのではないですか。あなたにとっては、誰が殺したのかが問題なのではない。こうなってしまう前に助けられなかったことこそ悔《く》いているのでしょう。さすれば真実が奈辺《なへん》にあろうと、あなたは一生そうして自分を責めつづける。何もできなかった−と」 「春……」 「どちらにしても後悔しっづけるなら、これから何かを為《な》す道を選んだって構わないではありませんか。罪と後悔を背負っても、生きている限り為せることはあります。何かを変えていくことはできます。やり直すこともできます。違《ちが》いますか?」 「春姫……」 「けれどそれがあまりにも重すぎて、もう一歩も動けないとおっしゃるなら仕方ありません。あなたはここにいらしてください。けれど春姫は行きます。わたくLが茶家当主となり、罪を償う《つぐな》ために茶一族としてのお役目を果たしましょう。−それがこの指輪を見つけたとき、わたくLが決めたことです」春姫の掌に載《のl》っているものに、克泡は畦目《どうもく》した。それは——。 「鴛泡大伯父様がはめていた茶家当主指輪……?」 「本物です」 「なく……なったはずじゃー」 「……お祖父様の指にはまっていたものに間違いありません」  それは秀麗様が社に入る前に見つけた小さな|輝《かがや》き。なぜこれがここにあるのか−そんなことはどうでもいいと思った。今、このとき、ここに本物の当主指輪が現れたことの意味。  すべてを背負おうと思った。分かち合えないなら、たった一人でも。 「この指輪は、ただいまこれより、茶春姫が受け継《つ》ぎます」  ただそれだけを告げると、華看《きやしゃ》な指に無骨でぶかぶかな指輪を差し入れた。  すっかりおさまるまえに、その手を、別の手がおきえつけた。 「待って」  春姫の指から、はめかけた指輪が抜きとられる。 「……僕の罪と後悔の償いを、君に背負わせるわけにはいかないよ」  そう言った克抱の瞳にもう迷いはなかった。                                                                                                                   ま  克抱はためらうことなく指輪を左の中指にはめた。いつも鴛泡が僚《_l▼》めていた場所に。 「君の言うとおり、僕は一生この日のことを後悔しっづけるだろう。僕の、今日この日まで歩んできた道が、ここにつながってしまったのなら、真実がどうでもやっぱり僕が殺したんだ。もっと早く、別の岐路《きろ》を行っていれば−こんな、結末には、ならなかったかも、しれない」  克洵は青ざめていた。指輪が、ひどく重かった。あらゆるものがここには詰《つ》まっている。  背負うべき命が、これほどに重い。 「何度も何度も繰《く》り返し思い返すよ。きっと死ぬまで夢に見る。忘れるわけにはいかない。でもそれだけでは、なんの役にも立たないと、君はいうんだね」歩いて欲l《ま》しいと、彼女はいうのだ。忘れなくていい。覚えたままで、その痛みも後悔も背負ったままで、前を向いて歩いて欲しいと。  かつて鴛泡が歩んだのと同じ道を。 「……僕は、本当になんの取《と》り柄《え》もない。何一つうまくできたためしがない。でも」  はめた指輪が、不意に光った。  陽炎《かげろう》のように現れた姿に、克抱も春姫も−秀麗も驚いた。  見たところ二十代も後半の青年だった。けれど克抱と春姫はそれが誰だか一目でわかった。  そっくりの絵姿を、毎日のように邸《やしき》で見ていたのだ。 「鴛拘……大伯父様《おおおじさま》……?」  |呆然《ぼうぜん》と|呟《つぶや》いた克抱に、まるで水に映る影《かげ》のように揺《ゆ》らめくその青年は小さく笑った。   −……やはり、お前がきたか、克拘。 「お、大伯父様!?」  さえぎるように手をあげ、時間がないーと、青年は呟いた。   −若く、|優《やさ》しいお前にはつらい決断だったな。茶家当主堅且つならば、これからも多くの  つらい思いを味わうだろう。優しければ優しいほどに泣くことになろう。……だが、それでいい。優しさだけは決して手放すな。何にも動じない男になどなるな。心がえぐられるたびに泣いて、そしてまた先を見て歩きだせ。真に守るべき者を見誤るな。自身がどんなに血にまみれても、守るべき者が傷つかないように。それがお前の誇《ほこ》りとなる……。  克泡の目から、こらえきれずに涙が《なみだ》あふれた。目指すべきもの。歩むべき道。この人と同じ道を行きたい。  ——−……優しく、強い男になれ。私に英姫がいたように、お前には春姫がいる。お前ならきっとかなうだろう。克泡——−鴛洵《わたし》に克《か》つと名付けられた者よ。  伸《の》ばした手は、何もない空をきった。現れたときと同じように、まるで何ごともなかったかのように消え失《う》せてしまった。握りしめた|拳《こぶし》で涙をぬぐい、克抱は続けた。 「……でもゆっくりと歩いて、鴛洵大伯父様を追いかけることなら」  どこまでもどこまでも追いかけて、あの人が行った道を追いかけて、いつか同じ異《そら》の遥《はる》か彼方《かなた》を望もうと、努力することなら、できる。 「長い……長い途《みち》になるね、春姫。永遠にも近いほど」 「はい」 「僕は、とても弱いから、きっとひとりでは押し|潰《つぶ》されてしまう。怖《こわ》くて何度も逃げ出そうとするかもしれない。だから……」春姫は脆く《ひぎまず》と、ゆっくりとこうべをたれた。 「いついつまでも、春姫は克拘様のおそばにて、お支えいたします!」  克抱は、|壁際《かべぎわ》によってすべてを見ていた秀麗に、まっすぐな瞳を向けた。 「……紅州牧、僕は−」  彼の言うべき言葉はわかっていた。彼は紅《ヽ》州《ヽ》牧《ヽ》と言ったのだ。  秀麗は州牧印を|握《にぎ》りしめる力を抜いた。思ったよりもずっと静かな声が出た。 「ご|覚悟《かくご 》は、おありですか? 今この時ご決断なさるその意味をわかっていますか〜」 「はい」  秀麗は|微笑《ほほえ》むと手を組み、州牧として貴人に対する正式な立礼をとった。 「それでは、茶克洵殿《どの》の茶家当主ご就任をここに認め、茶州州牧紅秀麗、心よりお祝いを申し上げます。今回の一件に関しては、すべてをつまびらかにし、あらためたのち、ご当主としての責を問いましょう。追って沙汰《さた》をいたします」 「すべて、仰《おお》せのままに従います」そして克泡は父の枯れ木のような骸を抱《むくろだ》きしめた。こらえきれなかった涙がぼろぼろ零《こぼ》れた。 「父上……父上……僕は、茶家の当主になります。一生をかけて償います。もう二度と、|後悔《こうかい》はしないー。さあ、行きましょう。お目様の下で、ゆっくりと、|眠《ねむ》りましょう……」         静態患歯癖  風が動いた。誰《だれ》もいなくなったはずの地下の宮に、ゆるりと風が巻いて若者の姿が忽然《こつぜん》と形づくられる。 「……鴛洵」  彼は旧《ふる》い友人の名を呼んだ。答えが返ってくるまで、だいぶ間があった。  姿もない。すべてを使い果たしたかのように、ただ声だけが。   ー……終わったぞ……答。《しよ事ワ》間に…あった……。 「……こんなことのために、お前をつれてきたわけではなかった」  静かに邸のあちこちをたゆたい、少しずつ侵食してきた闇は、すでにない。  こんなことになってるとは思っていなかった。まさかあの|馬鹿《ばか》が怖いもの知らずにもこんなふうに宮を利用するとは丁1−。 「こんなことのために、お前をつれてきたわけじゃないー」  自らの命をなげうってまで救おうとした、茶家の行く末を見せてやろうと思っただけだ。いつだって最後までやり抜《ぬ》いた友の、たった一つ|途中《とちゅう》で投げ出さざるを得なかった大仕事、その幕引きを。  彼の遺志を引き継ぐ者、新しい時代が拓《ひら》く様を見せ、安心させて眠らせてやりたかった。  本当に、ただそれだけだったのに。 「この間《やみ》が、茶家の人間を狂《くる》わせたわけじゃない。これは、ここにただ在るだけ−魅入《みい》られたのは、その者自身のせい。そう言ったのにお前は−」   ー最後の後始末だ。どうせならとことん役立って眠ったほうがいい……。 「お前の馬鹿さ加減は、まさに死んでも治らないな。英姫にも会わずにー」   −その死人を、きちんと眠らせなかった馬鹿は、誰だ。 「人柱にさせたかったわけではない−!」  反対した。たが頼《たの》まれれば、友の願いを断ることはできなかった。  この頑固者《がんこもの》は、愚《おろ》かな弟の尻《しり》ぬぐいのために最後まで自らの意志を|貫《つらぬ》き通すのか。 「安らかに……眠らせてやりたかったのに……お前というヤツは最後の最後まで……」  微《かす》かに、|吐息《と いき》にも似た優しい笑いの気配がした。   −じゃあな、寄……。  そしてもう、二度と声はなかった。  駕陶は去った。仙《せん》たる彼ですら、もはや手の届かぬところへ。その|魂《たましい》を宮の奥深くに鎮《しず》めることで、ゆるゆるとあふれだしていた闇を止めて。  唇が震《くちびるふる》えた。 「……おやすみ鴛洵−よい、夢を」  愛しい友と過ごした、奇蹟《させき》のようなこの五十年を、永久《とこしえ》に忘れはしない。       0億患歯態  英姫はふっと顔を上げた。閉《と》ざされたままの|扉《とびら》を見る。  ゆっくりと、|椅子《いす》から立ちあがった。         ヽ   ヽ  くるー。  そして、扉が開かれる。 「英姫大伯母様《おおおぼさま》!」  飛びこんできたどこもかしこも|平凡《へいぼん》な若者に、英姫は厳しい目を向けた。  |訊《き》くべきことはただひとつ。手首をひるがえし、|斬《き》るように羽扇《うせん》を若者につきつけた。 「その指輪、我が夫の歩んできた道を、継《つ》ぐ覚悟がありやなしや!?」  茶一族中を震え上がらせてきた英姫の眼差《まなぎ》しにも、克抱はひるまなかった。 「あります−できました。だから、どうか僕の行く道の、助けとなって下さい」 「−よういうた」  英姫は婿然《えんぜん》と微笑んだ。  本当に、文句なしに平凡な若者だった。  けれど一族のなかでたった一人、鴛泡の美質をそのまま受け継いだのが克河だった。  弱きを知っているから、強くなれる。何ももっていないから、本当に大切なものを捨てずにすんだ。才など、それさえあればいくらでも補える。足《ヽ》り《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》な《ヽ》ど《ヽ》何《ヽ》も《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》。 「ぎりぎりで間におうたな。さあ、そなたも支度《したく》をせい」 「し、支度……?」 「このとんまめ! 今日がなんの日かもわかっておらぬのか。はよう着替えてきや!」  言葉に尻を叩かれるように、おぼつかない足どりで室を出ていく克抱に、英姫は額を覆った。  それから、入れ違いで春姫と|一緒《いっしょ》に入ってきた秀犀に目を留めると、すぐに立ち上がり、頭《こうベ》を垂れた。 「あたくしは亡《な》き茶駕抱が妻、繚英姫。紅州牧とお見受け致《いた》すが、此度《このたび》は茶家がご迷惑《めいわく》をおか                                    、ノけし、心よりお詫《■J 「》び申し上げる。……もう少しばかり、付きおうていただいてよろしいか?」秀麗は言葉の意味をすぐに察した。にっこりと笑う。 「はい。もちろんそのつもりです」 「感謝いたす。それにしても凄姫……お前、あの男で本当に後悔しないかえ?」 「お祖母様と同じくらいには、幸せになれると思っております」  澄《す》んだ声を取り戻《もど》した孫娘《まごむすめ》に、英姫は得たりと笑《え》んだ。 「ふん、わたくLはどじやと? まあ無駄《むだ》じゃと思うが、努力くらいはしてみやれ」       癖聴級血啓・敵  茶州の司牧でありながらいちばん下座に席を与《あTた》えられたことは別段どうでもよかったが、ひっきりなしに突《つ》き刺《さ》さる噸弄と嘲笑は《ちょうろうちょうしょう》さすがに辟易《へきえき》した。 「……ほあー……なんか、進士のときを思いだしますー」 「こんなんだったのか。お|偉《えら》い官吏様《かんりさま》もずいぶんケツの穴ちいせーなあ」  影《かげ》月はぐるりと何度目かの視線を大堂に巡《めぐ》らせた。 「……やっぱり、朔洵さんと克洵さんがいませんね」 「まだあとちらほらいないヒトビトが。それにしても気になるのがなんでこの室《へや》かっつーことなんだけど。……造りが、みょtに……」こんこんと手近な床《ゆか》やら柱やらを叩《たた》く。  すると、しずしずと茶家の仕女たちが入ってきた。続々と膳《ぜん》を並べ、酒杯《しゅはい》を注いでいく。いちばん下座の燕青たちはもちろん運ばれてくるのは最後である。  なかの一人が酒杯を受けつつ思いだしたように笑った。 「そういえば、茶鴛泡は確かこうして本家男継嗣《だんけいし》を全員毒殺したのだったなぁ」  悪い冗談だ《じょうだん》った。しかしかつてはあれほどおそれた茶鴛抱も、その妻標英姫もいないとあって、その解放感や逆恨《さかうら》みの反動がそのひと言で噴《ふ》き出した。  どっと嘲笑と罵倒《ぱとう》の声が上がった。 「まったく、とんだうすら汚《よご》れた纂奪者《さんだつしゃ》だったのう」 「王の信頼《しんらい》を受けたと思って血迷いおって。傍流《ぼうりゆう》の出で智慧《ちえ》ばかり回る邪魔者《じやまもの》よ」 「ふ、ふ。しかし長くはつづかぬわ。見よ、ヤツの血を継ぐはすでに口もきけぬ孫娘一人きり。これぞまさに天罰《てんぼつ》というものよ。茶家の娘を警《めと》らなんだからこないなことになるんじゃ」 「仲障め、すっかり当主気取りで我らを呼びつけるとはなんたる|傲慢《ごうまん》きよ。我らがなんのためにここへきたと思うてか」  ちらり、と影月と燕青に視線が向く。 「どこぞの子供と馬の骨ごときの承認なぞ、本当に何かの役に立つとでも思うとるのかのう」 「仲障など待つ価値もない。我らだけで祝杯《し紬ノ1はい》をあげようではないか」  それがよい、とたちまち賛同があがり、高々と杯が《きかずき》上がっていく。  勘《かん》の鋭《するど》い燕青だからこそ気づいた。  床がーいや、床、だけでなく−。 「……まさか仲障じーちゃん……」  つぶやいたとき、庭院《にわ》から誰《だれ》かが飛びこんできた。 「浪州牧《しゅうぽく》−!」 「彰−てことは」 「燕青さん?」 「影月、ちょっと動くな。彰、お前絶対そこからあがってくんなよ」  そして燕青は並べられた膳の皿を次々ひっつかむと、仕女たちが入ってこようとする出入り口すべてに投げつけた。  杯が砕《くだ》ける音が|響《ひび》き渡《わた》る。誰もが動きを止めた。  燕青はにっかと笑った。 「椅貰《されい》な女の子たちにこんなこと言うのは勿体《もつたい》ないんだけど、もうそこから一歩も入っちゃダメだぞt。じゃないと、この離《はな》れ、ぺっしゃんこにつぶれて一緒に死んじまうからな!」  しん、と大堂は怖《おそ》ろしいほどに静まりかえった。  全速力で突っ走ってきた柴彰は、|叫《さけ》んだあと|膝《ひざ》をついて荒《あら》い呼吸を繰《く》り返した。ドクドクと|鼓動《こ どう》を打つ心肺《しんぷ》は、まるで張り裂《さ》けていないのが不思議なほど音をたてている。だらだらと流れおちる|汗《あせ》が日に入って、涙が《なみだ》出そうなほど痛い。それでもさすがに燕青の言葉には|驚《おどろ》いた。 「屋根が傾《かたむ》いてんの。ここすげー|妙《みょう》な造りっつtか、そもそも柱の数が超《ちょう》少ねtの、わかる? しかも床薄《ゆかうす》いし、重心も偏《かたよ》ってて、どこもかしこもわざと壊《こわ》れやすい造りにしてんだよ……つーことで、体重の軽いお嬢さ《じよーフ》んたちからゆうくり一人ずつ庭院へおりてくれな」燕青は良くとおる低い声で、あっけらかんと言った。  仕女たちは燕青の言うとおりそろそろと歩いて庭院に散った。それを見ながら、燕青は柴彰に声をかけた。 「−で、彰、仲障じーちゃんと、ちゃんと話《ナシ》つけてきたか」 「……ええ」 「じーちゃんはどした?」 「|今頃《いまごろ》……お亡《な》くなりになっていると思いますよ」  まだ静まりかえっていた大堂には、そのひと言はやけに大きく響いた。  ようやく固まっていた空気が溶《と》け、どよめきが走った。 「なん……なんだと!?」 「どういうことだ!!」 「仲障が死んだのはどうでもいいにせよー何が起こっているのじゃっ」  ちょうどそのときー夜陰《やいん》を切り裂いて大勢の叫声が《きょうせい》あがるのが遠くに聞こえた。  燕青はにやっと笑って手を打った。 「お、ぴったりじゃん。さーすが悠舜」 「な、なんだ!?何が起こっている!?悠舜とは鄭悠舜のことか!?」 「ん。女の子たちが出ていったから、まあ大声くらいは|大丈夫《だいじょうぶ》かな。−影月」 「はい」  影月は立ち上がり、|緊張《きんちょう》に青ざめながらもしっかりと、|精一杯《せいいっぱい》の声を張り上げた。 「このたび、茶家が今までなしてきた諸々《もろもろ》の不正、|疑惑《ぎ わく》、横暴の|証拠《しょうこ》が、茶州各郡太守《たいしゅ》により提出されました。出そろったものを鄭補佐及《ほさおよ》び州府官吏が重ねて検討した結果、充分捕縛に価《じゆうぶんはばくあたい》するものとの裁可がくだり、州牧杜影月の名を以《もつ》て私がこれを認めました。今日これより、州牧の権限をもちまして、茶家の全面検《あらた》めに入ります。|皆様《みなさま》には特にお伺《うかが》いしたいことがございますので、どうぞこのままお待ちくださいますよう」最初は|呆然《ぼうぜん》と聞いていた茶家の面々も、言葉の意味を理解すると|一斉《いっせい》に怒号《どごう》をとばした。 「な……なんだと|小僧《こ ぞう》が偉そうに!」 「場と身分をわきまえよ下郎《げろう》がっ!!」 「労《ま》えある彩《さい》七家を|侮辱《ぶじょく》するか⊥燕青が加勢をするまでもなかった。影月の大喝《だいかつ》がとんだ。 「−僕はこの茶州の州牧です!!」  初めて、彼はそう宣言した。 「連綿と長きにわたってつづいてきた茶家の方々には、敬意を払《はら》います。けれど茶州の司牧として、正当なる裁きは行います。それを覆《くつがえ》すことはいたしません。お話は伺いましょう。けれどまずは、茶家の代表になるかたとです。1もちろん、そのかたにはいちばん重い責任と罪を背負っていただくことになるでしょう。その|覚悟《かくご 》をしていただきます。折良く今日が選定及《およ》び就任式とのこと、お待ちしましょう。さあどうぞ、選定に入り、ご当主を決めてください」不気味な沈黙《ちんもく》が流れた。  つい先ほどまで気勢を上げていた茶家の面々は、誰もが口をつぐんでひと言も口をきかなかった。茶家当主の座はこの場に集《つど》った全員の悲願だった。茶鴛泡が死んだあと、表面は笑いあいながら陰で互《たが》いの足をすくいあってきた。この場に集ったのは、もういい加減全員の|我慢《が まん》が限界にきていたからだ。仲障なぞ論外。しかし選定と就任と適された会合は決着をつけるのにちょうどよかった。この場ですべてを終わらせてしまおうと誰もが腹の中で思っていた。  しかしーここで当主になるということは、甘い汁《しる》を思う存分吸える立場になるのではなく、茶家の諸々の罪を一身に背負って裁きを受ける身になるのだと、この州牧を名乗る子供は宣言  した。誰もが自分たちのしてきたことを重々承知しているだけに、そのうえ他人の罪まで背負うことになるなど考えたくもなかった。  なんとかこの子供を懐柔し《かいじゆう》ようにも、隣《となり》では浪燕青が日を光らせている。鄭悠舜の派遣《はけん》したという武官たちがそこらへんを走り回り、茶家の舎人と小競《こぜ》り合いをする物音がだんだんと|迫《せま》ってきている。刻々と時間だけが流れ−ついには一人の老人が緊張に耐《た》えされず、|脂汗《あぶらあせ》を流しながらこんなことを提案した。 「その……彩七家の当主を決めるというのは、大変なことでございましてな。そういう家の出ではないあなたにはわからぬかもしれんが、何年もかけて選定するものなのじゃ。こんな、いきなり言われてもちと困るというか、せめて明日まで待ってはもらえんかのう」そうだそうだと、声が上がる。  さすがの影月も|呆《あき》れ果てた。なんとまあー。 「|黙《だま》って聞いておれば、なんたる|往生際《おうじょうぎわ》の悪いくそじじいどもじや」  まさに影月の内心を代弁してくれた声が、ぴしゃりと響いた。  一分の|隙《すき》もない見事な正装に身を包み、まるで后妃《こうひ》のごとく|威厳《い げん》に満ちて悠然《ゆうぜん》と入ってきたのは一人の老婦人だった。しゃんと背筋を伸《の》ばし、足どりも優雅《ゆうが》に、若い頃《ころ》はさぞやと感嘆《かんたん》するほど見事な容姿を保っている。  その場の全員が一斉に顔色を変えた。隣で燕青が 「うわーきたー」と半ば乾《かわ》いた笑いを上げたのが影月の耳に印象的だった。 「一人くらいは骨のある男もいやるかと……まったくとんだ時間の無駄《むだ》じやったわ。明日までだと? 待つ必要などないわ」 「——僕が、継《つ》ぎます」英姫のあとから現れた若者が、皆《みな》の前に立って、はっきりとそう言った。  影月はその若者が誰か、しばらくは気づかなかった。英姫と同じく正装していることもあったが、頬《ほお》がこけ、みるからにやつれて、半月前、最後に会ったときとはだいぶ印象が変わっていた。けれどその日を見て気づいた。いっそ気弱なほど|優《やさ》しい目。けれど今は、その奥に決然たる光が揺《ゆ》れていた。 (克洵さん−)  そして、そのあとにつづいた秀麗と春姫の姿を認め、影月は心底ホッとした。  すべては終わり、そしてはじまるのだ。 「この正統なる茶家の当主指輪を以《もつ》て、今日これより茶家当主に茶克拘、就任致《いた》します」  克泡がしめした中指の指輪に、茶家のお歴々は騒然《そうぜん》とした。 「な−やはり繚英姫がもっていたのか!?」 「いや、まがいものではないのか!?」  英姫は苛々《いらいら》と小うるさいじじいどもを一喝《いつかつ》した。 「黙りや!!あれは本物じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。ぐだぐだ申すな! それよりもわたくLは今これより茶克泡の後見につく。コワッパで至らぬ点はこのわたくLが補ってやるわ。−1繚英姫、茶克泡の茶家当主就任に賛意を表し、これを以て承認と為《な》す。さあじじいどもめ、他《ほか》に我こそ茶家当主たらんと息巻く骨のあるやつはいやるか!?」ぐっと誰もが押し黙った。  茶家当主の座は欲l《ま》しい。茶克泡など、今までちょこまか|目障《め ざわ》りに飛び回る小蝿《こばえ》程度の|認識《にんしき》しかない。なぜ標英姫がわざわざ後見につくのかも疑問だったが、英姫とて不死身ではない。近いうちにポックリいったあと、克洵なら御《ぎよ》しやすく、簡単にのけてしまえるだろう。そのころにはだいぶ茶家も落ち着いて、また虎視眈々《こしたんたん》と利を狙《ねら》うこともできよう。州牧《しゅうぼく》は当主にはいちばん重い罪をと言っていたから、もしかしたら克泡はあっさり斬首《ぎんしゅ》に処されて簡単に当主交代が成るやもしれぬ。今はとにかく時期が悪すぎた。  一瞬《いつしゅん》のうちに、すさまじく計算高い考えが並み居る茶家重鎮《じゆうちん》の間に走った。そして。  秀寮と影月は、お互い顔を見合わせると、肯いた。同時に軽く頭を垂れる。 「茶克洵殿の茶家当主ご就任をここに認め、州牧として心よりお祝い申しあげます」  秀麗の声に、もはや反論の言葉は出ない。−無言の承認を以て、ここに茶家新当主が誕生した。  邸《やしき》のあちこちで|罵声《ば せい》や|怒声《ど せい》があがり、剣《けん》の打ち合う音さえ聞こえてきた。今頃、州武官や全商連精兵たちが、秀麗と翔琳の報告をもとに書き足した茶家の見取り図を手に、片《かた》っ端《ばし》から隠《かく》し室《ベや》の捜索《そうさく》に当たっているはずだった。  紺紺《一ょ一まく》の足音が、ひたひたと確実に近づいてきていた。けれど克抱の顔はすべてを受け入れる  かのように|穏《おだ》やかだった。         も曇  刻々と高まる緊張についに耐えされなくなった老人が一人、猛然と立ちあがった。 「わ、わしは帰るぞっ。なんの関係もないのだからな! このようなとこに長居は無用じゃ」  影月はやんわりと立ちあがった老人をたしなめた。 「茶冒殿《さぼうどの》でいらっしゃいましたね。あなたには柳西邑《りゆうさいむら》の一件をはじめとして、他二十三件の懸《けん》案《あん》がありますので、すべてにお話を伺うまではお帰り頂くわけにはいきません」茶冒と呼ばれた老人はみるみる青くなった。  燕青はまた襟元《えりもと》をくつろげた。まったく、出番がなくて顔がにやけてしまう。 「冒じい、まあ座っとけって。じゃねtといらん怪我《けが》することになるぞ? なあ彰?」 「ええ。ようやく|到着《とうちゃく》しましたね」  整然と統率《とうモつ》のとれた足どりで、州武官と全商連精兵たちが一斉に庭院から取り囲んだ。  次々と白刃《はくじん》のきらめきが流れ、茶胃はへなへなと床《ゆか》に座りこんだのだった。       ・翁・翁・  静蘭《せいらん》が目的の離《はな》れにたどりついたとき、朔泡は外の|騒《さわ》ぎなどまるで聞こえもしないというように優雅に二胡《にこ》を弾《ひ》いていた。今日が茶家当主選定式及び就任式であり、直系の彼には出席義務があるということなど、まるで書物のなかのお話といった風情《ふぜい》である。  愛《め》でるように優しい仕草で弦《げん》をすべらせ、放たれた音は室にしばしたゆたう。  静蘭は扉脇の壁《とびちわきかベ》に背をつくと、とりあえず一曲弾き終わるまで黙って聞いていた。  最後の余韻《よいん》がこぼれおち、霧消《むしよよノ》した。 「『相愛恋』か。まあ、悪くはない腕《うで》だ」 「芸事に秀《ひい》でた元公子様にお褒《ほ》めの言葉を頂けるとは思わなかったよ。さて、呼んだ覚えはないのだけれど、ご用件は何かな?」 「これを」静蘭はゆっくりと近くの卓子《たくし》に、掌に載《てのひちの》るほどの|小瓶《こ びん》を置いた。 「飲んでもらおうと思ってね」  それが何か、朔抱には一日で見当がついたようだった。くすくすとおかしそうに笑う。 「おやおや……そんなことをしなくても、手っ取り早く殺してしまえばいいのに」 「ぜひそうしたいが、裁きを受けさせる必要がある。だがどんな堅牢《けんろう》な牢《ろう》に放りこんだとしても、お前に思考能力を残しておくのは危険すぎる」 「裁き……ね」 「もう|証拠《しょうこ》がない云々《うんぬん》では言い逃《のが》れはきかない。茶一族の罪状と証拠があきらかになり、正式に州府の手が入った以上、茶一族直系男子というだけで捕縛の理由は充分だ《じゆうぶん》」 「あまり趣味《しゅみ》は良くないな。生きたまま木偶偽偏《でくにんぎょう》にしようなんてね。第一!」白い指を動かし、朔洵は頬杖《ほおづえ》をついた。 「どうやってそれを、私に飲ませるつもりなんだい?」 「殴《なぐ》って気絶させて口こじあげてむりやり流し込もうかとも思ったが」  あからさまに嫌《いや》そうな顔をされたので、むしろ本当に実行しょうかと静蘭は一瞬思った。  その誘惑《ゆうわく》をおさえ、静蘭は傍の椅子《そばいす》に優雅に−そして倣然《ごうぜん》と座った。 「それでは、ずいぶんと時間がかかりそうだったのでね。やめにした。それにお前とは、少々話をしてみたいとも思っていた」 「ふぅん?」初めて、朔泡の目に興味深げな光が浮《■つ》かんだ。 「ちょっとした、遊戯《ゆうぎ》をしよう」  静蘭は小瓶を片手で弄ぶ《もてあそ》ように揺らした。 「お互《たが》いの、欲しいものを賭《か》けて」 「……私の欲しいものを、君がもっているの?」  朔抱は優艶に笑った。 「彼女は、君のものだとでも?」 「違《ちが》う。だが私がいる限り、お前の手には絶対に入らない」 「……確かに君は|邪魔《じゃま 》だよね。私は、お姫様には私だけを見ていて欲しいんだ」  ごく簡単に朔抱は肯《うなず》いた。 「で、君の欲しいものは私の木偶塊儲か。なるほど対等だね。いいよ、のろう」  朔洵が軽く手を叩《たた》くと、やや青ざめた仕女が音もなく入ってきた。 「いつものように酒杯《しゅはい》の用意を。香《かお》りと度の強いものを、そうだな、ちょうど三十六杯《ばい》」 「御方《おかた》様……おも、母屋《おもや》のほうで」 「私に、もう一度同じことを繰《く》り返させるつもりかい?」  仕女はぎくりと身体《からだ》を震《ふる》わせると、叩頭《こうとう》して慌《あわ》てて下がっていった。  すぐに、なみなみと|注《そそ》がれた酒杯が三十六、ずらりと隅《すみ》の卓子に並べられた。どれもかったく同じ容器で傍目《はため》にはまるで区別がつかない。 「ああ君、好きな杯《さかずき》を選んでそこの卓子にある小瓶をあけてくれ」  仕女が言われたとおり小瓶をもっていっても、静蘭は異を唱えなかった。こういう男は、遊ぶときは徹底《てってい》的に遊ぶ。つまらないところで|妙《みょう》な小細工はしない。 「じゃあ、次に適当に杯を順々に選んで、こちらの卓子に方形に並べていってくれ。横に六、縦にも六となるようにね」  仕女が黙々《もくもく》と椅麗《されい》な正方形に杯を並べ終えると、朔泡は満足げに領き《うなず》、下がらせた。 「賓《さい》でいいだろう?」 「ああ」  静蘭と朔抱は杯の並んだ卓子に移動すると、向かい合うようにして腰《こし》を下ろした。  朔抱がカチャリと音を立てて置いたのは、黒と白に塗《ぬ》り分けられた二つの章子《さいころ》。 「黒が縦列、白が横列にしようか。出た目のぶつかるところの杯を干す。カラの杯に当たったら、出るまで寮をふる。君がもってきたのは即効《そつこう》性?」 「ああ。だいたい湯が沸《わ》くくらいの刻《とき》で身体が弛緩《しかん》しはじめる」 「じゃあ、少し話をしながらゆっくり干していこうか。それとは別に五つほど致死《ちし》の猛毒《もうどく》が入っているはずだけれど、それも同じくらいで効果が現れるはずだから」当然予想の範囲《はんい》内だったので、静蘭は一つ|溜息《ためいき》をついただけだった。 「ご丁寧《ていねい》なことだな。『いつものように』こんなことをしているのかお前は」 「人生には|刺激《し げき》が必要なんだよ。特に私のような者にはね。これくらいしないと面白《おもしろ》くない」 「『ダメダメ人生に悲観したので死にます』とでもそこらに書きつけておいてもらいたいね」 「じゃ、君も『うっかり毒飲んじゃいましたすみません』とどこかに書いておいてほしいな」ツッコミ役がいない二人の火花は、どんどん青く冷ややかになっていくばかりである。 「さて、じゃ、おもてなしする側として、私から先にふろう」  朔泡が先に賓をとるのを、静蘭は止めなかった。  丸い鉢《はち》のなかに黒と白の寮がふられた。 「五−三……これだね」  優美な手つきで縦列五、横列三のところにある杯をすくいあげる。まるでためらわず、朔抱は極上の名酒を楽しむようにゆっくりと飲みはしていく。  静蘭はまるでなんでもない世間話をするように一つ話を放った。 「亡《な》き茶太保《たいは》のご子息夫婦を殺すよう仕向けたのは、お前だろう」 「おや」 「どう考えても、茶仲障だけで出し抜《ぬ》けるとは思えない」  喉《のど》の奥で笑うと、朔泡は残りをすべて飲み干した。 「九年前だったかな。あのときは、君のご兄弟が王都で喧嘩《けんか》をしていて、誰《だれ》もがそちらに気をとられていたよ。誰でも殺せたと思うけれど」 「調べたが、あのとき繚英姫殿《どの》の不在を狙《ねら》って邸《やしき》に押し入り、ご子息夫婦を惨殺《ぎんきつ》したのは�殺《さつ》刃賊《じんぞく》″の残党だろう。瞑梓《めいしょう》の手口そのものだった。お前が関《かか》わっていないわけがない」 「お祖父様《じいさま》に取り入ることを決めたのは、瞑祥のほうだよ。いっぺん君たちに壊滅《かいめつ》させられたあとは、私もほとんど興味が失《う》せていたし。前にも言ったろう、殺させたのはお祖父様だ」 「実際にはそうだろうな。だが、繚英姫殿にも事前に阻止《そし》できなかったというのが、分不相応に鮮《あぎ》やかすぎて気味が悪い」静蘭は鉢のなかの賽をとると、無造作に振《ふ》った。軽い音を立てて出た目は、ニー三。 「茶太保にいつも遊びを邪魔されてうんざりしていたどこかの生産性なし二十歳が、ちょっとした仕返しに茶仲障に入れ知恵《ぢえ》したとしても、私は|驚《おどろ》かないね」二−三の杯をとると、ゆっくりと円に揺《ゆ》らす。そして見事に貴公子然とあおる。  朔抱はその様子を眺《なが》めながら、頬《はお》に落ちかかった長いほつれ髪《がみ》をゆっくりとうしろに杭《す》きや  った。その微笑《ぴしょう》はいささかも|崩《くず》れることがない。 「ふぅん? ほどほどに面白い話だね」  彼は否定も肯定《こうてい》もしなかった。静蘭も別に問いつめなかった。どっちにしても、彼がやはり自分では何もしていないということには変わりない。 「ほどほどに面白い話なら、まだある」  半分飲み干すと、静蘭はちょっと手を止めた。 「お前の父がおかしくなった理由も、聞きたくないか?」 「なんだか、君のほうがよっぽど我《わ》が家の内情に詳《くわ》しいねぇ。かつての公子様もずいぶん小技《こわぎ》がきくようになって。苦労は人を成長させるんだね。涙《なみだ》ぐましい努力に乾杯《かんばい》してあげようか」 「したきやしろ。私のぶんはお前の死体か木偶健偏の前で祝杯《しゅくはい》をあげるのにとっておく」 「じゃあ」静蘭が全部飲み干すと同時に、朔洵はまた費をふった。四−六。 「すっかり日が悪くて苦労性《しょう》になってしまった元公子様の悲哀《ひあい》に、乾杯」  |微笑《ほほえ》んでちょっと杯を揺らしてみせると、一気に飲み干した。  両者ともに、今のところ変化はない。けれどお互いに少し干す速度が速いので、静蘭はやや手を休めることにした。 「全商連で調べてもらったが、茶本家では時々数種類の香《、」、つ》が一度に注文されているな」  静蘭が上げていった香の名に、朔抱はわざとらしく首を傾《かたむ》けてみせた。 「どれも、ごく|一般《いっぱん》的だと思うけれどね」 「ああ。別に危ない橋を渡《わた》らなくても、ある程度の金持ちなら誰にでも手に入る。だがわかる者にはピソとくる組み合わせだ。一つ一つでは別段何も変化はないが、ある一定量を正確に配合すると、精神錯乱《さくらん》を経て人の心を徐々《じよじょ》に狂《くる》わせる効果をもつ。しかも常習性が高く、香の|匂《にお》いが『気に入った』からと自ら焚《た》くようになる」 「よく知ってるねぇ」 「昔、散々あちこちから送りつけられてきたからな」 「いいね、自分から求めなくても刺激的な人生を送れていたなんて、羨《うらや》ましい。それで? その香を注文していた人もわかっているんだろう〜」 「ああ、お前の母と、祖母だ」朔抱はなんの感慨《かんがい》もなさそうに肯いた。 「まあ、あの二人ならやるだろうねぇ。傍流《ぼうりゆう》ってことで父を嫌《きら》い抜いていたし」 「ただな、どれも|普通《ふ つう》の香木《こうぼく》なためか、盲点《もうてん》なんだろうな、裏の人間でもこの焚き合わせを知る者は存外少ないうえに、調合には本当に|微妙《びみょう》な調整が必要なんだ。どの香が多くても少なくても効果がなくなる。正確な分量を知る者もこれまた少ないのに、ちやほやされてただ何かを享受《きょうじゆ》することしか知らない贅沢《ぜいたく》好きな姫君《ひめぎみ》たちが知っているわけがない。どこかの、妙なことにやたら詳しい生産性のない暇人《ひまじん》が、退屈《たいくつ》しのぎに教えてやらない限りはな」 「なるほどね。確かに問われて答えてやった親切な人間はいるかもしれないね」  それがたとえ目の前の巻き毛の麗人《れいじん》だとしても、やはり何もしていないことには変わりない。  彼はただ気まぐれに興を求めて寮を与《あた》えてやるだけなのだ。振るも振らぬも、当人の決めること。たとえ、与えれば必ず振るとわかっていたとしても。 「じゃ、我が父上の気の病は母上とお祖母様《ぱあさま》によるものだったわけか」 「ところがここで話は終わらない」  刻《とき》を計り、静蘭は寮をつかむと鉢のなかにすべらせた。一−四。  杯をすくいあげると、あおる前にちらりと朔陶を見る。 「それからもーとくにこの一年ほど、また同種の香が購入《こうにゅう》されている」 「また母上とお祖母様?」 「そう」 「ふぅん。ゴタゴタに乗じてうっとうしいのを椅寛にしようってことかな。ふふ、これでお祖父様までいなくなってしまったら、自分たちまで没落《ぼつらく》してしまうことにも気づかないところが彼女たちらしいね。『血の誇《ほこ》り』を守ることしか考えない」 「気になったことは?」度の強い酒が静蘭の喉を灼《や》く。ふと、これほど強い酒に付き合うのは、亡き薔君《しようくん》奥方の晩酌《ばんしやく》以来かもしれないと思いだし、笑う。あのかたはおそろしく酒に強かった。 「ああ。妙に甘い匂いが漂《ただよ》っているところがあるのだけれど、それかな?」 「それだな。『壊都《ふくいく》と甘く薫《かお》る』そうだからな。しかも香の持続力が他《ほか》より長い」 「でも、お祖父様はまだまだ嬰鍵《かくしやく》としていたけれど」 「じゃ、よほど気にかかることでもあったんだろうな。それでも一年くらい吸っていると身体《からだ》のはうが音《ね》を上げて動きがひどく|鈍《にぶ》くなるものだが」 「|椅子《いす》に座りっぱなしだよ。色々と無いものねだりの欲l 《ま》Lがり屋さんだったからねぇ。でも母上とお祖母様もとんだ誤算だったろうね。今日この日まで生きちゃったんだから」微笑の裏の妙な含《ふく》みに、静蘭の|眉《まゆ》が寄る。けれど何も訊《き》かなかった。  すべて飲み干すと、静蘭は空の杯をもとの場所に軽い音を立てて戻《もど》した。 「これはオマケだが……一人分にしてほ購入分量が多い」 「うん? ああ、どこかでこっそりと誰かに使っていても、おかしくないと思うよ」  どうでもよさそうな言葉だった。それが振りなのか、本当にそうなのか、静蘭にも区別はつかない。遠い昔の自分がl思いだされた。彼は生来の性格ゆえだが、自分は意識的に、すべてを|穏《おだ》やかな笑顔《えがお》の下に押し隠《カく》した。虚偽《きよぎ》も真実も薄い紗に覆《うすしやおお》ったように|曖昧《あいまい》にして。 「ところで、私もひとつ訊くけれど」  練磨《されい》に整えられた爪で弾《つめはじ》かれ、黒と白の寮《きい》が宙を舞《ま》う。弧線を描《こせんえが》いて鉢にすべりこんだ。  静蘭の目に映った寮の目は、四——四。  いまのところ、かぶる目は出ていない。これからも出ないだろう。自分も相手も、計算し尽《つ》くした上で寮を振っているのだから。 「君は……というか世の人はなぜそんなに器用なのか、教えてもらいたいね」 「ほぁ?」 「私はたった一人しかいらないし、それでいいと思っているのだけれど、他の人……たとえば君は、違《ちが》うだろう? 愛《いと》しの姫君の他にも、ちゃんと大切な人がいる」静蘭は否定しなかった。かつてはたった一人−小さな弟しかいなかったが、今は違う。 「別に構わないよ。たくさん好きな人がいて、傍目《はため》に愛が分散されているように見えても各人の勝手だし、一人に絞《しぼ》るべきとはいわない。でも、私には一人しかいなくて、彼女だけに私の全部をあげようと思っているのに、他にも大切な人がいる君に|邪魔《じゃま 》されたくはないな」 「バカいえ」ぴりり、と静蘭の気がほの白く立った。 「お前とは絶対量が決定的に違うんだ。分散されてもお前より遥《はる》かに上だ」 「そう〜二十九年分ためてきたから、結構あると思うけど」 「ためてきたんじゃなくて、いつのまにかたまってただけだろうが。そんなもの、雨の日に桶《おけ》だしといたら飲み水が結構たまってたというくらいのありがたみもない」 「なるほど、そういう言い方もあるかもしれない」四−四の杯が《さかずき》空になる。今度は静蘭が賽を振った。一●三。 「私はな、茶朔拘、自分でいうのもなんだが、とてもわがままなんだ」 「知ってるよ。昔見たとき、そう思った。うまく隠してたけど」 「だから、欲しいものはすべてとる」  紅家に拾われてからできたたくさんの大切なもの。最初は怖々《こわごわ》とーそしてどんなに強く|握《にぎ》っても壊《こわ》れないと知ってからは、何一つ手放す気などなくなった。  どれも愛している。一つにしぼる気などさらさらない。すべてが今の 「静蘭」を形づくる、かけがえのないものだから。 「私はお前とは違うよ。何も選ばない。すべてこの手にとる」 「欲張ると、本当に欲しいものは手に入らないよ」 「言っただろう、茶朔泡。私《ヽ》は《ヽ》お《ヽ》前《ヽ》と《ヽ》は《ヽ》違《ヽ》う《ヽ》と」  干した杯を、元に戻す。 「お前にはわかるまいよ。私がどんなに彼らを愛しているか−それがどれほど幸福か」 「確かにわからないな。別にわかりたくもないけれど」  朔抱が寮をふる。ニー六。酒杯《しゅはい》をサくいながら、覇ついたように彼は笑った。 「ねぇ、もし私が、姫君に甘露茶《かんろちや》を掩《し》れてもらったと言ったらどうする〜」 「どうせまた、お前が下らぬ策でも弄《ろう》したんだろうが」  静蘭は動じなかった。このワカメ男のおかげでうっかり揺《ゆ》れてしまったが、ちゃんと自分の愛し方を思いだした今は、もう何にも動揺《どうよう》することはない。 「お嬢様《一.じよーワきま》の甘露茶は、おいしかっただろう?」  呼吸一つぷんの沈黙《ちんもく》。そして朔抱は何かを思いだしたように満足そうに笑った。 「……ああ、とっても」  朔抱が手にした杯を空にしたのを見ると、静蘭がまた寮をふった。三−四。 「いっておくがな、私はお嬢様にこの世で二番目に好きと言われたぞ」 「なんだそれは。全然|自慢《じ まん》にならないじゃないか」 「一番目はこの世の誰《だれ》もかなわない人だ。だから二番目でじゅうぷんだ。この意味がわからないとか、まさか言うなよ?」 「……相変わらず嫌《いや》な性格をしているね」 「誰に言われてもいいが、お前にだけは言われたくない」 「……いいな」ポッツとこぼれた言葉に、静蘭は一瞬《いつしゅん》何を言われたのかわからなかった。 「……は?」 「いいなぁと言ったんだよ。この世で三番目でいいから、私も彼女に言ってもらいたい」  寮をふる朔抱を、静蘭は|呆気《あっけ 》にとられて見た。  ……この、男がこんなことをいうとは。  そして気づいた。……顔色が、最初よりずいぶん青ざめてはいないか?  もともと白いからわかりにくかったが−これほど度の強い酒をあおっていてまるで赤くならないところからして、異変に気づいても良かった。よくみればすでに半死人のような白きになっている。|間違《ま ちが》いなく、さわったならほとんど氷のような冷たきになっているはずだ。  静蘭は思わず声を上げかけて1やめた。  この男が自分の言葉など聞くわけがない。静蘭にできることは、時が残っているうちに、するべきことをする、ただそれのみ。 「……ひとつ訊く」 「君、質問が多いねぇ。もしかして、実は私と良く知り合いたかったのかな? そうなら最初からそう言ってくれなきゃ。ちょっとは可愛《かわい》がってあげたのに」ビシッと静蘭のこめかみに背筋がたった。こんなときまでも茶化すことのできるこの男の神経がわからない。 「……お嬢様に�花″はちゃんと返したんだろうな?」  朔抱は優艶《ゆうえん》に笑って、言った。         ヽ   ヽ   ヽ   ヽ 「返したよ」  母屋《おもや》の|騒《さわ》ぎは、もう隠しょうもない。  それだけ聞けば、もう充分だ《じゆうぶん》った。静蘭は�干将″《かんしょう》に手をかけた。 「この賭《かけ》、私が勝たせてもらうぞ」 「……冗談だ《じょうだん》ろう」  朔抱はふわりと後ろへとんで、切っ先を避《よ》けた。 「相変わらずかわいげがないよね、君」  振《ふ》り向きざまにすらりと、|壁《かべ》に掛《か》けてあった剣《けん》を抜《ぬ》きはなつ。 「五杯《はい》だけといいながら、全部の杯に毒を入れるお前はどじゃない」  静蘭の剣を、朔抱は軽々と受けとめて弾いた。さすがだね、と薄く笑う。 「ちゃんと無味無臭《むみむしゅう》のを用意したのだけど。でも君だって、遊ぼうといいながら、絶対負けない用意をしてきlたじゃないか。ちょっと|卑怯《ひきょう》だと思うな」 「お前相手に命賭《か》けてたまるか。即効《そつこう》性なのにいま立っていられるのは、お前も中和薬を飲んでいるからだろう。卑怯者呼ばわりはお門違《かどちが》いだ」怖《おそ》ろしいほどの速さで剣が交《か》わされる。傍目《はため》には剣舞《けんぶ》を舞っているのかと思うほどに鮮《あぎ》やかな剣戟《けんげき》だった。 「飲んでないよ。単に昔から|暇《ひま》つぶしで色々と試していたら耐性《たいせい》がついていただけだ」  化け物め、と喰《うな》った静蘭の|膝《ひざ》がぐらりと揺れた。その際《すき》をついて、剣が繰《く》り出される。かろうじて受けるが、足が震《ふる》えて立っていられない。 (なんだ……?) 「君、ずいぶんとお酒に強いねぇ」  朔抱はくすくすと笑った。 「実はね、このお酒、少し改良してあってね、口当たりを良くしてあるから気づかないけれど、どんな酒豪《しゅごう》でもたった一杯でぶっ|倒《たお》れるくらいの度数なんだよ。それをひょいひょい平然と飲んだあげく、運動してようやく回ってくるなんて、どんな身体《からだ》してるの〜」 「……んの……つ!」 「さて、名残惜《なごりお》しいが、私は行くところがあるので、これで失礼するよ。君は少しそこで休んでいたまえ」  朔抱は鮮やかに笑うと、剣を放《ほう》り捨てた。かわりに、長椅子《ながいす》に立てかけてあった二胡《にこ》をそっと手にすると、彼は悠然《ゆうぜん》と|踵《きびす》を返す。 「……私との樽に勝つとしたら、君じゃない」  静蘭が最後に見た朔泡の横顔は、立っているのも不思議なほど青白かった。         鎗容態車癖  ちょっと最後の一仕事に行ってくるわー秀麗はそう言ってあの大堂を抜けてきた。  影月と燕青が少し心配そうな顔をしていたけれど、あれは秀麗の問題だ。自分で取り返すのが筋というものだった。  残る問題はただ一つー自分の�膏″《つぼみ》のみ。 (ったく、どこにいるってのかしら)  あちこち駆《か》けずり回る州武官や全商連護衛兵の間を走り抜けながら秀麗は首を傾《かし》げた。 (いると思うところって言われてもねぇ。しかもこの暗さで−)  ふと、秀麗の耳が微《かす》かな異音をとらえた。この大騒《おおさわ》ぎのなか、どこからか、楽の音が聞こえてくる。それもこれは、自分が毎夜弾《ひ》いていた二胡のものだ。 (……よくもまあこんなときに香気《のんき》に弾いてられるものねぇ)  秀麗は|呆《あき》れかえった。そして|爪先《つまさき》を音の方向に向けて、ためらう。   −多分、これが最後になる。  秀麗は州牧として、彼をとらえ、裁きにかけなくてはならない。紅秀麗として彼と会えるのは、これが本当に最後の最後だ。  秀麗はためらいを振り切るように頭をふると、音に向かって駆けだした。  そこは傍目《はため》にひどくわかりにくい場所だった。丈《たけ》高い繁《しげ》みや木々が密集し、一見したところでは実は奥にぽっかりと空間があいていることにも気づかない。  適当な木にもたれかかりながら、朔抱は切れ切れに二胡を弾いていた。  もう、指がうまく動かなかった。  それでも手を止める気はなかった。愛《いと》しい少女がくるまでは、弾いていなくては。 「絶対」と彼女が言ってくれたから、朔泡は安心して弾くことができた。 (……早く、おいで)  私の姫君《ひめぎみ》。  君が期待を裏切ることはない。だから早く−。 (私に、違《あ》いに)   −がさがさと繁みをかきわける音がした。 「……なんっっでこんなわかりにくいところにいんのよあんたは  −   つ!!」  頭に小枝や葉っぱを豪快《ごうかい》にくっつけて転がり込んできた少女を見たとき、朔洵は笑った。  それは、生まれて初めて、彼が心から|浮《う》かべた|優《やさ》しい|微笑《ほほえ》みだった。  そして、彼の手から二胡がすべりおち、音を立てて草の上を転がった。  胸が、嫌な音を立てて逆流する。  こぼり、という音とともに、朔泡の唇《くちびる》から真っ赤な血があふれた。  秀貫は眼前の光景に|呆然《ぼうぜん》とした。 (なに……)  何が、起こったのか。 「ちょ……つ」  秀麗はまろぶようにして朔陶のもとに駆け寄った。  すでに夜の唯《とばり》はおりていたけれど、星の光はふるように|瞬《またた》いていた。灯《あか》りもある。何よりあの嫌《いや》な音−触《さわ》った胸の、べっとりとした感触《かんしょく》は。 「な、なに……なんなのこれ。ちょっと……!」  混乱した。何をしていいかわからず無意味にさまよう手がガタガタと震えた。止血しなくてはと思いながら、内肺《ないふ》を食い破ったものをどうして止血できよう−? 「病……病気だったのあなた……!?」  昨日まではなんの兆候も《ちよ−つこ、つ▼》なかった。別に好き嫌《きら》いもせずなんでも食べていたし、元気に毎日ふらふらしていた。挙動にも顔色にも不審《ふしん》なところはなかったーはずだ。  けれど気づかなかっただけかもしれない。九年前の乱である程度|診療所《しんりょうじょ》で学びはしたが、専門的な知識は秀麗にはない。あるいは影月だったら気づけていたのかもしれないが。  赤く染まった胸を遭《ま》う手を、朔抱がそっとつかんだ。そのなかに、しやらりと珠飾《たまかぎ》りを鳴らして、彼は�膏″をもぐりこませた。ねばつく液体が轡を濡《かんぎしぬ》らす。 「……約束だったね。君の大切なものを返すよ」 「いまほそんなの…つ」 「ねぇ、君は最後まで、私に甘露茶《かんろちや》を掩《い》れてくれなかったね」  ふふ、と朔泡は夕刻のことを思いだして、笑った。 「君は結局、白湯《さゆ》しかくれなかった」  二度目に手を伸《の》ばしたのも、甘露茶ではなくて白湯だった。 『身体は大切にしないとだめなんだから。だから今日は白湯だけよ』  ーあれほど甘くておいしい白湯を、自分は知らない。  甘露茶は他《ほか》の男にも 「特別」なものだったけれど、あの白湯は違《ちが》う。  あれは、自分だけに掩れてくれたもの。  あの瞬間、《しゅんかん》自分だけの 「特別」な白湯になったのだ。  彼女は最後の最後まで、何一つ自分の期待を裏切らない。  朔河は赤く染まった胸をおさえた。そこはひどく暖かくて、それが不思議な感覚だった。   −本当は、真実を言おうと思っていた。  あの白湯には遅効《ちこう》性のーまだ耐性のつけていない毒が入っていたこと。甘露茶の茶筒《ちやづつ》には、それを中和する水溶性《すいようせい》の薬が刻んでいれてあったこと。 『甘露茶を掩れてくれないと、私は死んでしまうよ』  冗談のように言ってみせた言葉は、真実だった。  彼女がちゃんと甘露茶を掩れてくれたなら、自分は死ぬこともなく、そして彼女への興味も熱もすっかり冷めて、|今頃《いまごろ》ふらりとどこかへ姿を消していただろう。  でも、彼女が最後の最後まで、自分の愛する姫君のままなら。  私を殺したのは、君だよーと。  言おうと思っていた。  そうすれば、彼女は私を忘れない。  そして私は彼女にとっての 「特別」になれると思った。 「薬……何か常備薬とか、ないの!?ねぇこれ、単に喉《のど》が切れたとかなんでしょう?」  轡を放り捨て、震えながら薬を捜《さが》して袷や袖《あわせそで》をまさぐる彼女が、愛《いと》しかった。  これは遊戯《ゆうぎ》だ。いつか退屈《たいくつ》に殺されてしまいそうな自分の、遊戯の一つだったはずなのに。  本当は、彼女にそばにいてもらって、二胡を弾いてもらって、お茶を掩れてもらって……別  に州牧のままでも構わなかったけれど、もし州牧という地位が|邪魔《じゃま 》だと思ったら、どこかへさらってしまってもいいと思っていた。少しは障害があったほうがいいかと、暇つぶしも兼《か》ねてちょっとだけ祖父の手助けもした。  秀麗は自分にとって確かに特別だった。けれどそれは、やっぱり上に 「飽《あ》きるまで」と形容がつくものだと、信じて疑わなかった。その言葉がつかないものなど、この世には一つもないと思っていた。退屈で退屈で仕方なかったこれまでの二十九年がそうだったから。 (……誤算だったな……)  くすくすと笑うと、喉に血がからんで嫌な咳《せき》になってしまった。 「な、何笑ってんのよ|馬鹿《ばか》っ!!何がおかしいのよ。薬はどこよ!?」  彼女のほうが、よっぽど青ざめた顔をしている。  そういえば、あまり笑った顔を見たことがないと、思う。  何だかいつも怒《おこ》らせていた。怒る彼女がいちばん生気に満ちてかわいかったから、それで構わないと思っていたけれど。  一度、笑った顔も見てみたかったと、思う。  目の端《はし》に、二胡《にこ》が映った。もうすでに視界があやしい。最後まで残るとするなら、耳。 「……二胡を、弾いてほしいな」 「ふざけないで!! 」  くだらない感傷を、彼女は一刀両断してのけた。 「もういい、影月くん呼んでくる。そこで待ってて」  彼女は泣いていなかった。あきらめていなかった。いつだってあきらめないのだ。まぶしいは旺物生気に満ちて−前を向く。         つ  だ踵を返した秀麗の袖に指を引っかけて、止める。残りの力をすべて尽くして、抱き寄せた。 「なに……・・」 「こっちのほうがかわいいよと、何度も言ったじゃないか」  質素な轡を抜《ぬ》いて、きちんとまとめられた髪《かみ》をほどく。ゆっくりと重たげに揺《ゆ》れて流れた漆《しっ》黒《こく》の髪に手を差し入れ、愛しむように杭《す》く。  何もかもが愛しい。 「……君は、一度も私の本当の名を呼ばなかったね」 「……離《はな》して。影月くんを呼んでくるのよ」 「君にとって、私は何番目だろう」 「−離してお願い!」  ぐっと、身体《からだ》を抜こうとする秀麗を、渾身《こんしん》の力をこめて押しとどめる。小さな頭を引き寄せ、唇を寄せる。少女の唇に移った紅色を舐《な》めとって、自分の血の甘さに彼は笑った。 「……君のせいじゃないけれど、ついでだから、君に『茶朔泡』をあげるよ」  唇を離すとき、朔泡は秀麗の顔を見て初めて失敗したと思った。  彼女は、気づいてしまった。  自分が、なぜ死んでいくのか。 「……佳人薄命《かじんはくめい》というじゃないか。不治の病はいい男にはつきものなんだ」  かすれた声で繰《く》り返したけれど、もう彼女は信じていなかった。……まったく、最後の最後でこんなへマを踏《ふ》むとは。  言うべき言葉は、もうたった一つしか残っていない。 「……愛してるよ。君の二胡も、君の掩れてくれたお茶も、……君のすべてを」  パソ、と頬《はお》を張られた。 「そんな言葉でお茶濁《にご》そうったって、そうはいかないんだから」  秀麗は燃えるような目で朔抱を睨《にら》みつけた。泣かないでいるには、怒るしかないのだ。 「言うだけ言って逝《ゆ》こうなんて許さないわ。名前なんて呼んでやらない。なんて呼べばいいのよ。私は若様しか知らない。−私の名前だってあなたはちゃんと呼ばなかったわ!」そこで待ってて、と言い捨てると、彼女は本当に踵を返して走っていってしまった。  一度も振《ふ》り返りもせず。  朔抱はじんじんしびれる頬に手をやりー笑い出した。 「参ったな……」  どう考えたって最期《さいご》なのに、愛してるよと言った男の頬を張り飛ばして、看取《みと》ろうという考えなど露《つゆ》もない。最後の最後まで彼女には意表をつかれてばかりだ。   −彼女と|一緒《いっしょ》に過ごしたこの半月は、馬鹿みたいに|穏《おだ》やかに過ぎた。  あっちこっち忙《いそが》しそうに駆《か》け回る彼女を見ているだけで楽しかった。髪をくくってもらって、二胡を弾《ひ》いてもらって、お茶を掩れてもらって、他愛《たわい》のない話をして。  ただそれだけの繰り返し。  なんの変哲《へんてつ》もなくて、退屈極《きわ》まりないはずの日常が、……とても、楽しかった。  くだらない遊びなど、巡《めぐ》らす気もわいてこなかった。彼女がきてからというもの、朔河は何もしなかった。ただそばにいるだけで満ち足りた。  彼女の弾く二胡が飽きないから好きなのだと思っていたのに、彼女がいつも|驚《おどろ》くようなことをしてくれるから気に入っているのだと思っていたのに、違った。  何もしなくても、自分は彼女が好きなままだった。  何もしなくても好きなら、一年たっても、十年たってもきっと変わらない。 「君は本当に『特別』だったんだ……」  それに気づいてしまったから、朔洵はもう自分の思うようにできなくなった。  飽きて、捨てるだけの玩具《おもちや》ではないから、大切にしたくて。生まれて初めて、彼は特別な人のために何をできるかを考えた。  T……そうすると、どう考えても私がいちばん邪魔だったというだけで……)  こんなことならよく考えて行動するべきだったと、|後悔《こうかい》しきりだ。まったく彼女に関しては、どこまでも後悔や未練が尽きない。これもまた、生まれて初めての経験だった。  彼女は自分のものにはならない。彼女の誇《はこ》り高い|魂《たましい》を思えば、正体がパレてしまったあとで  ほ、たとえどんなに好きでも、朔陶の掌に陥《てのひらーお》ちることなどあるはずがない。  できることといったら、あとはもう『茶朔洵』を彼女にあげることだけだった。  うっかり出だしを間違ってしまったから、もうどう転んでも自分は彼女にとって良運にはなりえない。茶家の人間としても、『琳千夜《りんせんや》』としても、されいさっぱり幕を引いて、彼女の人生から退場することくらいしかない。  ほんの少しだけ療だ《しやく》ったから、最後に樽《かけ》を用意して。  それさえ彼女は苦もなく越えた。 「私との樽に……勝つのは、君だけだ」  目の前がぼんやりと薄暗《うすぐら》くなる。  はぁ、と朔抱は|溜息《ためいき》をついた。  自分が死ぬときほ、なんにも未練などなく逝くものだと思っていた。好きなことをし尽くして、何もかもに飽きて、ある日突然《とつぜん》生きる気力も尽きて。  けれど実際はどうだろう。  馬鹿みたいに、あとからあとから未練がわいてくる。名前を呼んでもらいたかった。もっと二胡が聞きたかった。もっと一緒に過ごしたかった。もっとよく考えて計算高く、別の出会いかたをしていればよかった。……愛していると、言わせたかった。   −私の名前だってあなたは呼ばなかったわ!  彼女にあわせて、おままごとみたいな恋《こい》で、満足しなければ良かった。 「もっと……」  ー生キタイか17ずるり、と地を遭《ま》うような声に、朔抱は溜息をこぼした。 「……また、きたのか」  1ズっと見てイたが、やハり、お前ガいちばん面自《おもしろ》ィ。  そうだね、と朔陶は|呟《つぶや》いた。 「……それも、いいかもしれない」  降るような星異《ほしぞら》に、月はなかった。  それでいい。それがふさわしい。朔の闇夜《やみよ》に生まれて、そして1微《かす》かな苦笑《くしょう》を最期に、コトリと、朔陶の腕《うで》が落ちた。       容態録怨敵  1星が、流れる。  けれど今宵《こよい》、天外にかかる月はない。 「どうか、しましたか? 主上。外に何か?」  楸瑛《しゅうえい》の声に、劉輝は縛《しば》っていた髪をほどいた。きちんと結《ゆ》うのは、相変わらず苦手だ。 「いや……不思議な気がしてな。少し前までは、こんな闇夜が余はいちばん怖《こわ》かったのに」  秀麗がきて、兄がきて、何も言わずに左右にひかえる側近ができて。  いつのまにか、一人きりではなくなって。 「闇さえ気にならぬほど、余の大切なものはあふれるほどにできたのだな。もちろん、そなたもちゃんと愛しているぞ、楸瑛」真顔で言われ、楸瑛はくすくすと笑った。……本当に実の弟にしたいくらいだ。 「それは、ありがとうございます。ちなみに秀麗殿《どの》と比べて、何番目くらいですか?」 「なんだそれは。比べることなどできぬぞ。……昔は、兄上だけーたった一人だけでいいと思っていたが、今となっては勿体《もつたい》なくてそんなことできぬ」 「ずいぶんと欲張りですねゝえ」 「王とはすべからく欲張りなものなのだ」 「なるほど。一理あります」撒瑛は妙に納得《みょうなつとく》して肯《うなず》いた。 「欲張りなのに、一生懸命《けんめい》自制して、頑張《がんぼ》っていらっしゃいますね。|偉《えら》いですよ」 「……あまり優しいことを言うと、余は甘えて泣いてしまうぞ」  本当はいつだって後悔と未練で堂々巡《めぐ》りをしているのに。  名前をたくさん呼んでほしい。二胡《にこ》を弾いて、お茶を掩《い》れてもらって−当然のように過ごしていた贅沢《ぜいたく》すぎる優しい日々。   −王権を行使してでもそばにさらってきたいと毎日思っている。 「……今、余はちょっと情けない顔をしている気がする」 「そうですね、だいぶ。でも私は好きですよ。|大丈夫《だいじょうぶ》です、私たちがそばにいます」  愛するもの、大切なものが一つでないことの幸運を、こんなとき劉輝はかみしめる。  手を差しのべてくれる人がいるから、頑張れる。待つことができる。  一人きりだったら危《あや》うい綱渡《つなわた》りも、支えてくれる手があるからちゃんと立っていられる。 「……もし、余が秀麗しか見えなかったら−」  彼女に蓬《あ》うまでは世界はひどく退屈《たいくつ》で、出逢ったらそのぶん激しく燃える|蝋燭《ろうそく》のように生きて尽《つ》きて1きっとたった一人で逝くような気がする。  多分それはそれで、きっと後悔はしないだろうけれど。 「なあ楸瑛、やっぱり余は、大切なものがたくさんできて、とても幸せだと思う」  輿刷胤胤潮目日日日日日日…=日日越 「……まさか、由官吏《ゆかんり》が鄭補佐《ていはき》だったなんて……」  秀麗《しゅうれい》は引きつりながら、隣《となり▼》の、もうすっかり頬《ほお》のこけも戻《もど》って優しい顔立ちを取り戻している鄭悠舜《ゆうしゅん》を見た。 「もうあのとき、塔《とう》にはいなかったわけですね……」  道理で燕青《えんせい》が 「朔でもどうこうするのは無理」と断言したわけだ。 「|騙《だま》してしまって、本当に申し訳ありません」  やわらかく、どこまでも耳に優しい声だった。そしてまさに彼は声そのままの人だった。  造作の一つ一つがやわらかい印象なのに、瞳《ひとみ》に見え隠《かく》れする強い意志のせいで、決して柔《にゅう》弱《じやく》に見えない。ゆったりとした仕草のすべてが余裕《よゆう》に満ちて|穏《おだ》やかで、彼の周りでは時の流れさえ違《ちが》うような気がした。指の先から聡明《そうめい》という名の雫が《しずく》あふれこぼれるかのように思える。  そんな彼に牢獄塔《ろうごくとう》の|天辺《てっぺん》に一人引きこもるほどの行動力があるとはいまだに信じられない。 『あそこにいました』と指さした塔を見て、秀麗は絶句したものだ。まさに断崖絶壁の間際《だんがいぜつベきまぎわ》に建てられているばかりか、おそろしいことに崖側《がけがわ》にかなり傾《かたむ》いているのだ。なかで誰《だれ》かが一暴  れでもしたらすぐにぽっきりと折れて崖にまっさかさまに落ちかねない。  よりにもよってあの天辺になど、秀麗だったら金を払《はら》うと言われても入りたくない。 「敵を騙すにはまず味方からとはいっても……いったいどうやってあの塔を出たんですか?」  朔泡か《さくじゅん》ら境埴《これん》全面封鎖《ふうさ》の要請《ようせい》を受けたあと、悠舜はこれが茶家《さけ》の最後の追い込みと判断し、事前の打ち合わせ通り即座《そくぎ》に塔からの|脱出《だっしゅつ》をはかった。しかし塔の周りには始終茶家の私兵がうろちょろしている上に、もとより足が悪い彼には一人での脱出など到底《とーワてい》無理なはずだ。 「……うーん、実は私にもいまだに良くわかっていないのですよ」  小首を傾《かし》げられ、秀麗は|呆気《あっけ 》にとられた。……なんだそれは。 「いえね、南《なん》老師……燕青のお師匠様《ししようさま》に一任してあったのですが、いきなりうしろから殴《なぐ》られて気絶させられて、気づいたらいつのまにか金華《きんか》郡府に捨てられていて……」 「はあ!?す、捨てられてって……」 「さすがに、私も|驚《おどろ》きました。寒いなと思って起きたら、郡府の庭院《にわ》で寝《ね》ていたので」いいのかそれで!?にっこりと笑ってそう締《し》めくくった鄭悠舜を、秀麗はやはりただ者ではないと思った。  というか、燕青の師匠も師匠である。 「それにしても、本当に何もかも手を打ってくだきっていたんですね」  秀麗は戯配するしかなかった。鄭悠舜の脱出後、なんと州府の主機能は金華都府に移されていたというのだ。  もともと移管準備は事前に行われており、各郡の決裁は以後滞《とどこお》りなくすべて金華に運ばれ、なんの支障もなかった。今から思えば秀麗と影月《えいげつ》がせっせと金華の事後処理をしているそのわきで、彼はせっせと州牧《しゅうぼく》代印を押して茶州の政務を執《と》り行っていたわけである。着任式の準備は金華から悠舜が全商連に託《たく》して文《ふみ》を飛ばし、州都境唾に残っている州府の能吏《のうり》たちによって着々と進められていた。  由官吏の最後の仕事はまさに境噂に戻って 「鄭悠舜の州府|帰還《き かん》」を果たすことだったのだ。 「�茶州の禿鷹《はげたか》″のお二人にも、すっかりお世話になってしまって」 「あの二人、あちこち飛び回って、火付け人を片《かた》っ端《ぼし》からつかまえてくれたとか」  秀麗はあのあと、いてもたってもいられず翔琳《しよーフりん》をむりやり境壇に飛ばしたのだ。  彼らは見事義賊《ぎぞく》としての大任を果たし、仲障の依頼《ちゅうしよういらい》で境壕のあちこちに火を付けて回ろうとした下手人を次々《ー》気絶させて縄《なわ》でくくって転がしていったらしい。その見事な手並みといったら、 「まるで生粋《きつすい》の狩人が狸《かりゆうどたぬき》を次々と吊《つる》しあげていくような」感じだったとか。 「ええ。あとできちんとお礼を申しましょうね」 「はい。……それにしても、はんっと赴任《ふにん》期限に間に合ってよかったです……」 「そうですね。これで茶州の冬支度《じたく》も、年末年始、新年を迎《むか》える準備にも間に合います。でももともと私も燕青も、今日この日以外の着任式は予定しておりませんでしたから、私からすればすべてはこともなしですね」 「………………」  秀麗は言葉もなかった。あれほどのことがあったというのに、実に穏やかな口調で、 「すべてはこともなし」のひと言ですませられてしまった。 (……お、大物すぎるわ……さすが黄尚書を抜《こうしようしよぬ》いて及第《きゅうだい》したひと……)  悠舜は嬉《うれ》しそうににこにこしていた。 「悠舜さん?」 「ふふ……いいえ、あの小さな子が、ずいぶんと大きくおなりになったと、思って嬉しくて」 「え〜前にどこかでお会いしました!?」 「と、いいますか……むりやり友人に連れられて、こっそり見に行ったといいますか」 「え?」  悠舜ほくすくす笑ったまま、それには答えようとしなかった。 「さて、されいにできましたね」  きゅっと、最後に�菅″《つぼみ》の花轡《はなかんざし》を髪に挿《き》した秀麗に、悠舜は目を和《なご》ませて肯《うなず》いた。  本当は�菅″は侭玉《はいぎよく》につける飾り玉《かぎだま》なのだが、州牧の証《あかし》である佩玉を下賜《かし》されたのは影月のほうだったので、秀麗は花轡のまま使うことに決めた。   −色々なことを忘れないためにも。 「す、すみません、悠舜さんに着付けのお手伝いなんてしてもらって」 「いいえ、お気になきらずに。それに確かに香鈴《こうりん》さんには杜《と》州牧のほうのお支度をしていただいたほうがよろしいでしょう。ずいぶんと気にかけて、青ざめていましたからね」 「ええ」  戻ってきたとき、まっすぐに影月に向かってその頬を張り飛ばした香鈴を思い|浮《う》かべ、秀麗は思い出し笑いした。 『もう……もうあなたなんて知りませんっ!!ああ秀麗様、ご無事で本当に良かった!』  影月はぶたれた頬をおさえて、目を白黒させていた。乙女《おとめ》の感情表現の裏返しは、いかな最年少状元及第者でも解くにはだいぶ時間がかかるだろう。  香鈴は境噂にきてから精力的に働き、着任式の手伝いにとりかかってくれていた。いやむしろ、ほとんど仕切っていた。男だらけの州府に唖然《あぜん》とし、州官たちも頑張《がんぼ》ったらしいのだが元宮女の香鈴から見れば味も素っ気もないー花もろくに飾っていない 「着任式の準備完了《かんりょう》間近」に憤激《ふんげき》し、大の大人をしかりとはして顎《あご》で使いまくり、全商連をも最大限に駆使《くし》し、見違えるように華やかな花と色彩《しきさい》あふれる式の準備を整えてくれた。その手腕《しゅわん》はまったく見事で、見ていた燕青が 「こりゃ絶対尻《しり》に敷《し》かれるな……」とぽつんと|呟《つぶや》いたのが実に印象的だった。 「ああ、本当によくお似合いですね」  椅麗《されい》に施《はどこ》された薄化粧《うすげしょう》は凄《りん》とした華《はな》やぎと|優《やさ》しさを、秀麗が考えた女性用の官服は|潔癖《けっぺき》さと決然たる意思をよく引き立てていた。 「うちの強面《こわもて》の州官たちが、そわそわと落ちつかなげにあちこちうろうろしているのがもうおかしくておかしくて……長年、髭面《ひげづら》で不|真面目《まじめ》なかわいくない州牧だったので、真面目で頑張り屋でかわいらしいお二人をお迎えして、皆《みな》ああ見えてとても喜んでいるのですよ」 「……悪かったな、髭面で不真面目なかわいくない州牧でよt。おっ、すごいぞ姫《ひめ》さん、されtにできたなぁ」ひょっこり顔を覗《のぞ》かせた燕青を、悠舜はむっと睨《にら》みつけた。 「燕青、|淑女《しゅくじょ》のお支度になんですか、|不躾《ぶしつけ》な」 「だって『されいにできましたね』って終わったってこったろ?」 「まったく、あなたのような大雑把《おおぎつぱ》でがさつで遠慮会釈《えんりょえしやく》もない前任者と幾《いく》月も|一緒《いっしょ》にいて、素《す》直《なお》なお二人がどんな悪影響《あくえいきょう》を受けてしまったのか、今から本当に心配ですよ」 「うるせt。へへん、もう遅《おそ》いっつーの」 「……燕青」 「わ、わかったよ。悪かったよ。すんませんでした。でももうポロでまくりだからあとは悠舜に任せる。豪快《ごうかい》にタダ飯くわせてもらったあとじゃ、もう今さらなに取り繕《つくろ》ってもマジ無理」無意味に胸を張る燕青に、悠舜はさめざめと顔を覆《おお》った。 「……これが今日から同僚《どうりょう》かと思うと……もうほんとに情けないですよ私は……」 「うわーちょっとひどくわーそのいいかた。上司よりマシだろ」 「私の言うべき台詞《せりふ》を先に言わないでください」  そのやりとりに秀麗は思わず吹《ふ》きだした。まったく、彼らの十年が見えるようだ。  ちょうどそのとき、ひらいたままの|扉《とびら》からおそるおそるといった風に二人の顔が覗いた。 「も、もう入っても|大丈夫《だいじょうぶ》ですかt? あっすごい秀麗さん!」 「とってもお美しいですわ……!」  興奮したように香鈴があとをつづけると、もじもじと近寄ってきた。 「……その、お支度のお手伝いができなくて、申し訳ございませんでした秀麗様……」 「え、そんなの全然構わないわよ。影月くんももう|完璧《かんぺき》ね。すごくよく似合ってるわ」 「聞いてくださいな秀麗様。このかたったら帯の結び方さえろくろくできないんですのよっ」  ぷりぷり怒《おこ》りながらも、どこか嬉しげな香鈴がかわいらしい。かいがいしく影月の世話を焼いている様が目に浮かぶようである。 「そういえば秀麗様、さきほど回廊《かいろう》で州官のかたからお花をいただいておりませんでした? なかなかご立派な風采《ふうさい》のかたでいらして。わたくし、ちょっと鼻が高《たこ》うございましたわ」 「あ、そうなの。萩《はぎ》の花束をね、いただいたのよt。著才《めいさい》と申します、つて。嬉しいわよね」途端《とたん》、燕青と悠舜が 「ええっ!?」とそろって|驚愕《きょうがく》の声を上げた。心なしか青ざめている。 「め、署才のやつが花…花だって!?……やっぱすげーよ姫さん大物だよ……」 「な、なんとまあそんな日がくるとは……生きていると色々なことがございますね……」  ……秀麗は、あまり深く詮索《せんさく》しないことにした。とりあえず今は。 「|皆様《みなさま》、お支度はよろしいですか〜こちらもそろそろ整いましたよ」 「あ、静蘭《せいらん》。二日酔《ふつかよ》いはもう大丈夫みたいね」  これから州軍特別指揮官たるべくやはり見事な鎧姿《よろいすがた》に身を包んでいた静蘭は、秀麗の何気ないひと言にうっとこめかみをおさえた。……まだずきずきする。 「言わないでください。まったく、亡《な》き奥様に晩酌《ぼんしやく》をつきあわされていなければ|今頃《いまごろ》まだ沈没《ちんぼつ》していましたよ」 「あのー静蘭さん、いっときますがあれで死んでないほうがおかしいですー」あとで酒杯《しゅはい》を調べて|仰天《ぎょうてん》した影月は、控《ひか》えめにそう告げた。 「じゃ、影月くん。やろっか」 「はいー」  二人の州牧は顔を見合わせると、そろって燕青と悠舜の前に|膝《ひざ》をついた。  それは進士のときに教わった、上《ヽ》官《ヽ》へ《ヽ》の《ヽ》正《ヽ》式《ヽ》な《ヽ》礼《ヽ》だった。 「紅《こう》秀麗、前茶州司牧のお二人のあとを引き継《つ》ぎ、与《あた》えられた玉命をまっとうするべく、日々|精進《しょうじん》努力を重ねたいと思います。よろしくご指導ご鞭接《べんたつ》のほど、お願い申し上げます」 「同じく杜影月、今回の件に関しましては、色々と未熟で至らない点が多々ありましたこと、紅州牧ともども心から反省しています。特に僕は本当に若輩者《じやくはいもの》ですが、|精一杯《せいいっぱい》努力したいと思いますので、お導き、よろしくお願いいたします」燕青は|珍《めずら》しくうろたえ、おろおろした。 「う、うわー照れるぞ。ゴベンクツってなんだ。ほれいいから顔あげろって」 「そうですね。公《おおやけ》の場では、こんなことをしてはいけませんよ。官位の区別はきちんとつけなくては」悠舜は片足を引きずりつつ、それぞれ二人の上司を立たせた。そしてにっこりと笑うと、少  し苦労しながら同じように膝をついた。 「紅州牧並びに杜州牧、両州牧に心からご赴任のお慶び《よろこ》を申し上げます。これより小官並びに茶州府全官、あげてお二人を支え導き、心よりお仕え申し上げます」                                                                                                 」一L■二人が何かを言う前に、燕青に抱《カカ》えこまれて乱暴に頭をかきなでられた。 「よtやく全員そろったなぁ! これから頑張ろーな。−ようこそ茶州へ!」       ・密歯車鎗  着任式の華《はな》やかな|騒《さわ》ぎを遠くに聞きながら、茶克泡は《こくじゅん》せっせと書きものをしていた。これから、茶家当主としてするべきことが山ほどあった。が、要領が悪いので、なかなか進まない。  本当は、当主として斬首《ぎんしゅ》の刑《けい》を言い渡《わた》されるのも|覚悟《かくご 》していた。けれど二人の州牧はこう告げたのだ。 『あなたを斬首にしちゃったら、何も変わらないでしょ〜』 『だから、春姫《しゅんき》さんと一緒に、頑張って建て直してくださいねー』  ……これから、一生をかけて、自分の罪を償っ《つぐな》ていくのだ。 「……本当に、僕は一人になってしまったな……」  克抱は手を止めると、ぽつりと呟いた。  祖母と母は、踏《ふ》みこんできた州武官たちを見て|処刑《しょけい》されるのだと勘違《かんちが》いし、金品を抱《かか》えて慌《あわ》  てて逃《に》げた。その|途中《とちゅう》、深い川に転落して沸死《できし》してしまった。抱えた金品のために浮かぶことも逃げることもできず、州武官たちが助ける間もなかったという。  克洵の肉親は、これですべていなくなってしまった。ただの一人も。  それでも、彼は歩いて行かなくてはならなかった。  さやさやとした衣《きぬ》ずれの音に振《ふ》り返れば、春姫がいた。 「春姫のぶんはもう終わりましたので、お届けに。また別の処理をくださいませ」 「ええっもう!?……な、なんか本っ当に頑張らないとまずいな……。そうだ、春姫」 「はい?」 「その、あの、今さらだけど、……すごく素敵《すてき》な声だね。開けて、とても嬉《うれ》しい」  春姫はしばらく沈黙《ちんもく》したのち、克泡を振り仰《あお》いだ。 「克拘様、初夜に良い日取りを、早くド師《ぼくし》に見てもらわねばなりませんね」  歩きはじめようとしていた克抱は、その言葉に豪快に頭からすっころんで、たんこぶをつくったのだった。       ・番線翁・ 「茶克抱は、誰《だれ》も殺していない」  華《はな》やかな琥の灯《あか》りを望みながら、英姫《えいき》は振り返らずに小さく肯《うなず》いた。 「……仲障を刺《さ》したのは、甥御殿《おいごどの》か」 「ああ。彼は最後だけ、|息子《むすこ 》のために正気に戻《もど》った。克泡の手にある短刀を捨てさせようともみあい、もぎとったときに仲障が入ってきた。それを見て息子を守ろうと仲障に|襲《おそ》いかかり、返り討《う》ちにあいながらもなんとか仲障を刺してー事切れたんだ。仲障は|馬鹿《ばか》にしつづけていた一人息子の手によって殺された。だが香《こう》で牒臆《もゝつろう》としていた克抱は……」 「……今となっては、真実はなんの意味もなすまいよ。結局、あれが父も祖父も助けられなかったことには変わりないからの。まったく……ほんに鴛洵《えんじゅん》とそっくりじゃ」茶家当主となって朝廷《ちょうてい》に戻ってきた鴛陶を、誰もが本家男継嗣を皆殺《みなごろ》しにしての就任と信じて疑わなかった。駕洵自身、反論をしたりはしなかった。  けれど英姫も霄太師《しようたいし》も知っている。真実が奈辺《なへん》にあったのか。  一族を皆殺しにしたのは、病弱だった本家の嫡男。おのが病身を憂《うれ》え、慕っていた鴛抱にすべてを|譲《ゆず》るため、あの日盃に毒を盛った。入室した鴛抱があまりの事態に呆然とするその際《すき》に、剣を奪い、自刃《じじん》した。残された駕泡の気持ちなど考えもせず。 「誰一人殺していないくせに、ぜんぶ自分のせいにして……ほんに馬鹿な夫じゃったわ」  英姫はそう|呟《つぶや》くと、ちらりと後ろを振り返った。 「害堵薇《ようせん》−鴛陶を殺したのはお前じゃな」  まっすぐに向けられた問いに、零太師は静かに肯いた。 「そうだよ」 「采や」  ゆっくりと振り向いた英姫に、害太師は音もなく近づいた。 「じじいより、こっちのほうが殴《なぐ》りやすいだろう?」 「じじいのほうがぽっくりいきやすくて殴りがいがあったわ」 「……あ、相変わらず怖《こわ》い女だな……」  英姫はもう戯《ぎ》れ言《ごと》を言わず、|容赦《ようしゃ》なく平手を打った。一度では足りず、二度、三度と。  霄太師は|黙《だま》ってその平手を受け入れた。この女性にだけはその資格があった。  平手は|唐突《とうとつ》にやんだ。霄太師が視線を下ろすと、英姫は必死で歯を食いしばっていた。その顔が小さく歪《ゆが》んだが、彼女は決して泣かなかった。  霄太師の目には、彼女の姿が出会ったときの少女の姿に見えた。  鴛陶を誰より愛して、愛して、愛して、どこまでも追いかけてきた少女。  鴛抱が|生涯《しょうがい》でただ一人愛した女−繚《ひよう》英姫。 「……わかっておったわ」  英姫はびりびりとしびれる手のひらをおさえ、ポッリと呟いた。 「鴛掬は、いずれお前に殺されるだろうと−それを望むだろうと、そんなこと、わかっておったわ。だから−だからわたくLは昔からお前が大っっっ嫌《きら》いだったのじゃ」 「……英姫」 「いつだって、鴛陶が見ていたのはお前だけじやった。わたくLはいつだって鴛抱のうしろで待つしかなかった。あれが前を向いたら最後−前を歩むお前の背中しか見なかった。ほんの時たま、気づいたように振り返ってわたくLを見るだけじやった。わたくLは……」 「英姫」 「それでもよかった。わたくLは−鴛洵を愛しているだけでよかった。傍《そぼ》に寄り添える場所をわたくLに与えてくれたことが嬉しかった。ーだがな」キッと答太師を睨《にら》みつけると、英姫はその胸《むな》ぐらにつかみかかった。 「だからといって、お前の存在を許せるほどわたくしの心は広くはないのじゃツ! 確かに妻の特権ゆえ、忙《いそが》しい仕事の合間を縫《ぬ》って息子も授《さず》かった。じゃがお前はまったくもって|目障《め ざわ》りじやった! 昔から——いつもいつもいつもあたくしと鴛泡の仲を|邪魔《じゃま 》しおってからに! こんの小姑が《こじゆうと》ぁっっ‖‥」ガクガタと揺《ゆ》すぶられながら、零太師は違い目をした。  だからきたくなかったんだ。……というかなぜ自分がこんな目に〜 「……むしろ邪魔してたのは君のほうじゃないか……」 「なにい!?」 「いえ……なんでもナイです……」  英姫は突《つ》き飛ばすように不意に手を離《はな》した。 「……鴛洵が昔一度だけ言うたことがある。私の死に方は決まっているような気がする、そのときがいつきても、どうか泣かないで欲l《ま》しい−きっと、満足して逝《ゆ》くからと」 「…………」 「……鴛掬は、その通りに逝ったか」 「最期《さいご》まで思うように生きたよ」 「わたくしのこと、何か言うておったか」  害太師は言葉に詰《つ》まった。英姫はぷいとそっぽをむいた。 「どうせ二言もなかったのであろ。そういう最低の恋人《こいぴと》なのじゃ。そんなこと知っておるわ。いつだって鴛泡の頭の中は国と政事とお前で−わたくLはいつだって二の次じゃったもの」  それでもよかった、と英姫はもう一度くりかえした。 「……そういう男と知って、愛したのじゃ。そういう男だからこそ、わたくLは鴛抱を愛したのじゃ。なんの、|後悔《こうかい》もないー」英姫は泣かない。英姫が泣くのは、ただ夫の胸でのみと、遥《はる》か昔に決めていたから。  零太師は小刻みに震《ふる》える小さな肩《かた》を抱《だ》こうとして——やめた。彼にはその資格はなかった。 「……くるのが|遅《おく》れて、悪かった。けれど鴛抱は君を愛していたよ。この世の誰よりも」  何一ついうことなどなかったのだ。やり残したことも、言い残したことも、伝えたいことも、すべてはとっくに愛する人のなかにある−と。そんな風に英姫を愛した男。 「そんなこと、お前ごときにいわれずともわかっておるわ!」 「……長生きしてくれよ、英姫。あとで都でよく効くっていう敏《しわ》とり薬を届けてあげるから」 「−二度とあたくしのまえに顔を見せるでないわこの人外魔境《まきよう》がっっ!!」  歳《とし》を重ね、様々な変化を遂《と》げても、彼女は自らの美点を何一つ手放さずにきた。  そうー鴛陶が愛した、たくさんの愛すべきものを失うことなく。       翰前歯尊顔  書翰《しよかん》を手に執務室《しっむしっ》に入った締牧《こうゆう》は、げっそりとした国王・劉輝《りゆうき》の顔にうっと一歩退《ひ》いた。 「……もしかして、また、大挙して押し寄せてきたのか?」 「きたのだ……」 「茶州からも報が届きましたよ。無事州牧の着任の儀《ぎ》が終わったとのことです」 「ああ」  劉輝は安心したように薄《うす》く笑った。すでに龍蓮《りゆうれん》から届いている書翰のことを知らない経俄は、ずいぶん大人な反応をするようになったと、満足げにうなずく。 「しかし……あの件はさすがに、せっつかれても仕方のない時期だと思うぞ」 「私もそう思いますよ」  楸瑛が苦笑《しゅうえいくしょう》しながら室《へや》に入ってきた。 「国が落ち着いて、もうそろそろ二年です。あなたも二十歳。はっきりいって遅《おそ》すぎますね」 「…………」 「もう男色家とか、言い逃《のが》れできませんから。去年の春に霄太師の要請《ようせい》でどこぞの素晴らしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》賢夫人《ヽヽヽ》が王の根性叩《こんじようたた》き直し係として入ってきた逸話《いつわ》は、高官たちの間ではすでに有名ですし、一部女官からは、お二人が床《と†」》を共にしたという情報も……」 「事実と異なってる。…………あのくそじじいの呪《のろ》いだ」劉輝はすねて机案《つくえ》の下にもぐりこんだ。 「こら! そんなところに入るじゃないっ」  絳攸に襟首《えりくび》をつかまれ、引きずり出される。楸瑛がつづけた。 「いい加減、|覚悟《かくご 》決めませんと。もしかしなくたって、兄たちの気まぐれ次第《しだい》じゃ藍家《うち》から私の異母妹《いもうと》の誰かが出てくるのも、そう遠い請じやないかもしれないんですからね」さすがに絳攸の顔色が変わった。−藍家《らんけ》筋からの話となれば、いくら王とてむげに断ることほできない。それどころか、最初から后妃《こーフひ》につけてもおかしくない家格なのだ。  劉輝は|溜息《ためいき》をついた。 「ああ……わかって、ほ、いる。だが」  劉輝は胸を張って堂々と宣言した。 「余は逃《に》げられるだけ逃げる気満々だぞ」   ー王都貴陽《きょう》にも、変化が訪れ《おとず》ようとしていた。  あとがき  二〇〇五年ですね。雪乃紗衣《ゆきのさい》です。去年はまさに 「災《さい》」の一年でしたが…|皆様《みなさま》のご無事をお祈《いの》りするばかりです。私にとっても忘れられない人生の岐路《きろ》となりました。嬉《うれ》しいこともつらいこともぎゅっと詰《つ》まりすぎて、まるで十年も過ぎたような、長い…長くて濃《こ》い一年でした。  ……まあ、この 「漆黒」がトドメでしたね……(違い目)。雪降る真夜中、綿入れ羽織ったあやしいやつが傘《かさ》も差さず素手《すで》で一人雪だるま(小)をつくっていたら、それは私です……(激ヤパ)。毎回、これ以上のことはあるまいと思うのに、なぜいつも私は……。支え合うのではなく、一方的に寄りかかって|潰《つぶ》してしまった担当様には、お詫《わ》びのしようもありません……。  そんなふうに作者も担当様をもどん底に叩《たた》き落とした彩雲国五冊目です。  今巻は女性陣《じん》大活躍《かつやく》。比べて男どものへたれぶりはどうだろう……しかし見事なカムバックを果たした彼ら《ヽヽ》だけは別格です。あの二人のおかげでずいぶん救われたかと。さすが義賊《ぎぞく》。  ちなみに彩雲国は人数とページ数の関係で 「いなくても良し」と判断されたキャラは即《嘉ヽノ\》ドナドナされます。主役級の人間でもあっさりドナドナ。グッパイアディオス。王都組はこれでも出番増えました。担当様の懇願《こんがん》ゆえに……。秀麗以外は大変危険です。  さていつのまにやら残る色は三色になってしまいました。……本当にいつのまに……(汗)。                                                                                                             ュ  貴陽の風も、少しずつ吹《J》く色が変わっていくようです。どうなることやら。  お手紙、すべて大切に読ませて頂いてます。なかなかお返事できずにごめんなさい……。  甘ったれで情けない私を辛抱《しんぼう》強くひっぱってくださる担当様、想像力いや増すイラストでネタも拝借・由羅《ゆら》カイリ様、つ、次こそお二人に心の安寧《あんねい》を…龍蓮のごとく……(ダメじゃん)。  そういえば|執筆《しっぴつ》中、不思議にいちばんつらいとき必ず雪が降りました(雪だるま事件しかり…)。必ずです。年に片手の指でも足りるほどしか降らないところなので、……これには本当に慰《なぐさ》められました。子供以外には何かと嫌《きら》われがちですが、私にとってはいつまでも特別に愛《いと》しいものです。  ところで、今回の本を発売早々にお買い求めいただいた皆様には 「フレッシュ・ビーンズ・パーティー」という|企画《き かく》が待ちかまえているそうです。……と書いている私も詳《くわ》しいことがよくわかってないのですが、全員サービス企画の小冊子には女の子勢揃《せいぞろ》いの短編を書かせていただいちゃうことに。それとセットになる錬《と》り下ろしT)ドラマCD用にも、野郎《やろう》まみれのネタを出してみたり。どちらもここだけの力作なので、見て(聴《き》いて)いただけると嬉しいです。  今年は花粉症《しよう》にお気をつけくださいね。今春発売予定のドラマCD 「彩雲国物語はじまりの風は紅く」は美声優効果で花粉も撃退《げきたい》するそうです。なんて(笑)。こちらもよろしければぜひ。それではまたお会いできることを祈って。                              雪乃紗衣